[32]心のあるがままにその日は定時で上がった。
帰り支度をしながらスマートフォンを確認したが、期待していた連絡はなかった。
ナマエはもう、自宅に帰っただろう。
俺は溜息を吐き、ビジネスバッグを持ってオフィスを出た。
ナマエは大丈夫だろうか。
昨日よりは、元気になっただろうか。
明日、出社してくるだろうか。
そんなことを考えながら、自宅の玄関ドアを開けて。
そして俺は固まった。
廊下の向こう、リビングから明かりが漏れている。
まさか、と、心臓が期待に揺れた。
その、まさかだった。
「…おかえりなさい、土方さん」
ドアの開く音を聞きつけたのだろう。
ナマエが、少し照れくさそうに笑いながら顔を出した。
てっきり、もう帰ったもんだと思っていた。
まさか、まだいてくれたなんて。
「えっと、その、ごめんなさい。余計なことかと思ったんですけど、その、お詫びに夕食を作ってて、」
呆然と立ち尽くした俺を見て何を勘違いしたのか、ナマエが慌てた様子で言い訳をしている。
しかしその言葉は、俺の耳を右から左にすり抜けていった。
そうだった。
こうしてこいつに出迎えてもらうのが、俺は好きだった。
ただ、それだけを思った。
そこからは、身体が勝手に動いていた。
「土方さん?…っ、」
俺は鞄を玄関に放り出し、ナマエの手を掴んで引き寄せるとそのまま抱きしめた。
腕の中でナマエが息を呑んだのが分かる。
だが、離さなかった。
長い髪の間に指を差し入れて頭を胸元に押し付け、もう片方の手で腰を抱き寄せる。
ナマエの匂いが、鼻孔を擽った。
もう、理屈ではなかった。
俺はただ、こいつのことが好きで、どうしても手放せない。
それだけのことだった。
それが、全てだった。
「なあ、ナマエ」
ナマエの頭のてっぺんに頬を寄せ、そっと思いの丈を吐き出す。
「帰ってきてくれ」
これは、続きだ。
あの、酔っ払ってナマエにここまで送ってもらった夜の。
「酒なら、俺に遠慮しないで毎日飲めばいい。サーフィン、は難しいが、スキーなら連れてってやれる。旅行も、お前が行きたいなら行こう」
お前の望みは、俺が叶えてやる。
そりゃ、一から十まで全部なんて約束は出来たもんじゃないが。
出来る限りの努力はしてやる。
「だからもう一度、俺のところに戻ってきてくんねえか」
もう仕事人間はやめだ。
そんなもの、お前がいなけりゃ意味がない。
「また、俺に向かってあの笑顔、見せてくんねえか」
今まで俺が大事にしてきた下らない手前のプライドだとか、立場だとか、そんなもんはもうどうだっていい。
だが、お前だけは。
お前だけは譲れないんだ、ナマエ。
「頼む…帰ってきてくれ」
もう一度俺と、生きてくれ。
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