[29]この世界が闇に染まる前に
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だがナマエはいま、俺を頼ってくれている。
単なる偶然かもしれない。
たまたまあそこを歩いていたナマエを、たまたま通り掛かった俺が見つけただけ。
もしあいつを見つけたのが原田だったとしたら、ナマエは原田の家に上がってシャワーを借りたのかもしれない。
別に、誰だって良かったのかもしれない。

それは分かっている。
だがそれでもいま、ナマエが頼っているのは俺だ。
だったら俺が、救い出してやりたい。
あいつには、笑っていてほしい。
いつだって、笑っていてほしい。

随分と惚れ込んだもんだ。
自分を振って、いまは他の男と仲良くしてる昔の女だってのに、こんなにも大切に想う。
この際、上司だろうが都合の良い昔の男だろうが、どんな肩書きでもいいからあいつの側にいたいと思ってしまう。
つらい時は支えてやりたい。
泣きたい時は頼ってほしい。
この俺が、こんなに一人の女に必死になるなんて、昔の自分が見たら笑うかもしれない。
だがもう、笑われても良かった。
情けない、格好悪い。
そんなことは気にならなかった。
それであいつに何かしてやれるのなら、上等だ。

「…遅い、な」

バスルームのドアが開く音がしてから、すでに10分近くが経過している。
女が風呂上がりに色々とやることがあるのは分かっているが、それにしたって長すぎる。
付き合っていた頃の経験から、ナマエはそんなに時間を掛けないことも知っている。

耳を澄ませてみたが、物音一つ聞こえない。
何かあったのだろうか。
俺は心配になり、ソファから立ち上がった。

「おい、ナマエ。大丈夫か?」

脱衣所の外から声を掛ける。
しかし返事がない。

「ナマエ、聞いてっか?」

ドアをノックしてもう一度声を掛ける。
だが、やはり物音一つ返って来ない。

「っ、開けるぞ!」

何かがおかしいと感じた俺は、そのままドアを引いて。
そして、視界に飛び込んできた光景に目を剥いた。

そこには、下着だけの姿で鏡の前に立つナマエがいた。
これが色っぽいシチュエーションなら、そりゃもう興奮するだろう姿なのだが、生憎とそんな状況ではない。
俺がドアを開けてようやく、ナマエは俺の存在に気づいたようだった。
はっと息を呑んで、慌てたように両腕で胸元を隠す。
しかし俺は、その前に気づいてしまっていた。

「…どういうこった」

漏れた声は、自分でも驚くほどに低かった。
よくよく見てみれば、胸元だけではない。
恐らく先ほどまでは、ファンデーションか何かで隠されていたのだろう。
首筋から鎖骨の辺りまで、点々と広がるそれは。
赤黒い、鬱血痕。

「誰にやられた」

頭の血管が、焼き切れる音がした。

「誰がお前を傷つけたって聞いてんだ!」

誰か、俺ではない男が、こいつに手を出した。

それだけでも、正直気が狂いそうなほど耐えられない事実だというのに。
こいつの様子を見る限り、これが合意の上ではないことなど明白だ。
誰かが、こいつを無理矢理、抱いたのだ。
許せるはずがなかった。
今すぐに殺してやりたかった。

しかしナマエは俺の声に肩を揺らし、震える声でこう言った。

「ごめん、なさい…」

まるで、泣いているような声だった。
その瞬間、沸騰した頭に冷水を浴びせられた気がした。

「悪ぃ…怒鳴ったりして、悪かった」

そう言って、ラックに置いてあった俺のバスローブを取ると、背後からナマエにそっと着せかけた。
後ろから抱きしめるように紐を結び、そのまま肩を引いた。

「ごめんなさい、土方さん。ごめん、なさ…っ」

なおも何かを謝り続けるナマエの肩を抱き、脱衣所を出る。
これ以上、鏡の前に立たせたくなかった。
リビングに戻り、再びソファに座らせると、俺はその前に跪いてナマエを見上げた。
ナマエは、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。

「ナマエ、謝らなくていい」

譫言のように繰り返されるごめんなさいを、そっと遮る。
膝の上できつく握り締められた両手を取り、その拳を開かさた。
掌に爪の痕が残っていた。

「傷つけるな、馬鹿」

その両手を握りしめる。
爪痕なら、俺の手につければいい。
俺を、好きなだけ傷つければいい。
だからお前だけは、傷ついてくれるな。



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