[3]あの夜の泣き顔の訳帰宅した俺を待っていたのは、どこか思い詰めた顔をしたナマエだった。
「どうした」
コートとスーツのジャケットを脱いでダイニングチェアーの背凭れに掛け、ネクタイを緩めた。
その間もナマエは黙りこくって、リビングのソファで小さくなっていた。
「ナマエ、黙ってちゃ分かんねえだろうが」
自分でも、少し苛ついた声が出たのが分かった。
だが、想定外のトラブルと溜まった疲労とで、俺はナマエを気遣う余裕を失くしていた。
それどころか、人が残業して帰って来てみりゃ何だその態度は、なんて腹を立てていた。
今思えば最低だ。
そんな俺にナマエが放った一言は、それはもうちっとも可笑しくない台詞だった。
「私と、別れてほしいんです」
だがその時の俺には、その展開がさっぱり理解出来なかったのだ。
「はあ?なんだそりゃ、冗談にしちゃ笑えねえぞ」
俺はソファに座るナマエに詰め寄った。
なぜいきなりそんなことを言い出したのか、分からなかった。
「私は本気で言ってます。土方さん、別れて下さい」
ナマエが真っ直ぐに俺を見据える。
確かにその眼は、真剣そのものだった。
「…なんでだ。何が気に食わねえ。待たせちまったことか?」
「いえ、お仕事なのは分かっています」
「だったらなんだ!」
煮え切らない態度に苛立った。
思わず大声が出た。
ナマエは小さく肩を揺らして俯いてから、ぽつりぽつりと言葉を零した。
「土方さんが私のことを大切にして下さっているのは、分かっています。そしてそれ以上に仕事を大切にしている気持ちも、勿論分かっているつもりです。私と仕事どっちが大事なのなんて、馬鹿なことは言いません。誇りと責任を背負って働く土方さんを、私は尊敬していますし、そんな土方さんを好きになったんです」
ナマエがそんな風に俺に話すのは、多分その時が初めてだった。
その時になってようやく俺は、ナマエはこれまでずっと俺の言うことに何も口を挟まず従ってくれていたのだと知った。
「でも…ごめんなさい。私もう、笑えないんです」
そう言ってゆっくりと顔を上げたナマエは、確かに笑ってなかった。
今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「待って待って待ち続けて。もう、大丈夫ですよ気にしてませんよって、笑って言えなくなっちゃったんです」
ナマエが俺の前でそんな顔をしたのも、その時が初めてだった。
こいつはいつも、笑っていた。
「そんな自分がね、嫌なんです。土方さんのことを、嫌いになったのではありません。ただ、もう笑って貴方を待っていられない私は、ここにはいられません」
そう言って、ナマエはソファから立ち上がると。
手に持っていた何かを俺に差し出した。
それは、俺の家の合鍵だった。
いつもはナマエの自宅の鍵と一緒になってキーホルダーに付いていたはずのそれは、ずっと握り締めていたのか温かかった。
「今まで、ありがとうございました。お仕事が大変なのは分かっていますが、身体、壊さないで下さいね」
ナマエは最後にそう言って、言葉を失くした俺の返事など待たずに、ソファに置いてあったコートとバッグを取り上げるとリビングを出て行った。
その数秒後には、玄関のドアが開き、そして閉まる音がした。
俺はいまでも考える。
あの時、ナマエを追いかけていたら、何か変わっただろうか。
いまもあいつは、俺の隣にいただろうか。
答えは分からない。
あの日の俺は、ナマエを追わなかったのだから。
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