[32]貴方色に染まる「時にナマエ」
二本目の銚子が空になった時のことだった。
それまで殆ど無言で盃を傾けていた風間様が、不意に私を呼んだ。
「はい」
顔を上げると、風間様は着物の懐に手を差し入れ何かを取り出した。
美しい紋様の入った紙に包まれた何かが、私に差し出される。
「開けてみろ」
突然の出来事に驚きつつも、私は言われた通りにその包みを開いた。
そして、中から姿を現したものに息を呑んだ。
「これ……」
真紅から茜色、緋色、鉛丹色、黄丹、萱草色、花葉色、そして金色へ。
それは、いつかの散歩道で立ち寄った小物屋で見つけた、あの簪だった。
「どうして、これを……」
「お前にやろう」
呆然とする私に、更なる驚きの展開。
風間様がこれを、私のために買ってきてくれたということか。
「そんな、頂けません!」
店先で見かけた時、値段までは確認しなかった。
しかし白檀で出来ているのだ、明らかに高級品である。
「ふむ。それは、俺の読みは外れということか?」
そうではない。
そうではないのだ。
むしろ大正解だ。
どうして私がこれを欲していると分かったのか。
だって、この色は。
「どちらにせよ、俺が持っていても無用の長物だ。好きにしろ」
投げやりにそう言われ、手の中の簪をぎゅっと握りしめる。
「本当に、頂いてもよろしいのですか……?」
私は、これが欲しかった。
この色が、欲しかった。
「お前に買ってきたのだ。お前以外誰が受け取る」
だって、この色は。
紅色から、金色へ。
「ありがとう、ございます……っ。大切に、大切にします」
貴方の色なのだから。
そう言って頭を下げると、風間様は盃の中身を飲み干した。
そしてこう聞いた。
「どうだ。我が妻となる気になったか」
三日ぶりのその問いに、私は思わず頷いてしまいそうになった。
だけどすぐに思い直す。
今肯定すれば、それではただの物に釣られた女だ。
そんな不誠実な話があるだろうか。
「……いいえ、」
私は簪を握りしめたまま、小さく首を振る。
だが風間様は、もしかしたら私の真意に気付いていたのかもしれない。
そうか、と呟いて、彼はくつりと笑った。
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