[28]怖がって踏み出せずにいる一歩が
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その二日後、匡さんは予定通り里に帰ったそうだ。
そうだ、というのは、屋敷の使用人にそう聞いただけであって、実際に私はお帰りになる姿を見ていないから。
何かが風間様の逆鱗に触れたあの日から、私は一日の大半を自室に引き込もって過ごしていた。
食事と晩酌の席に同席するな。
自室には誰も通すな。
その言い付けを、忠実に守った結果だ。

膳は自室に運ばせ、基本的には部屋の外に出ない。
私の部屋を訪ねて来るのは使用人だけ。
唯一の例外は、一日のうちたったの一度、散歩の時間になると風間様が私の部屋を訪れた。
どうやら散歩のお供はさせてもらえるらしいと思ったが、私は初めてその誘いを断った。
どうしてか、風間様と一緒にいたくなかった。
気分が優れないと説明すれば、風間様はそれ以上何も言わなかった。
二日目も同じようにした。
やはり風間様は何も言わなかった。
そのあと風間様が一人で散歩に行ったのか、私は知らない。
屋敷の中に気配が感じられなかったから、恐らくは出掛けたのだろう。

そうこうしているうちに、匡さんは屋敷を辞したそうだ。
最後に何の挨拶も出来なかったことが悔やまれたが、仕方ない。
私は特に何をするでもなく、ぼんやりと襖の模様を見て過ごした。


その翌朝。

私は迷っていた。
匡さんはもういない。
屋敷は元の状態に戻っている。
では私は、どうすればいいのだろう。
匡さんが来る前のように、風間様と広間で朝餉を摂るべきなのか。
それともまだ自室から出ない方がいいのか。
判断に困って悩んでいるうちに、使用人が部屋に私の分の膳を運んできた。
それは、昨日と同様に私がここで食べるだろうと思ってのことなのか、それとも風間様の指示なのか。
どちらにせよ、ここで食べる気にはなった。
あまり風間様に会いたくなかった私としては、好都合だった。

私は今初めて、風間様に会うのを恐いと感じている。
元より決して気軽に顔を合わせられる人ではなかった。
頭領という肩書きも勿論のこと、風間様には人を寄せ付けない雰囲気があった。
話し方一つとっても、こちらを萎縮させる。
しかしそれでも、決して恐怖を感じてはいなかった。

だが先日の殺気は、間違いなく私に恐怖を植え付けた。
確かに私は女一人で生きていくためにある程度の剣術や戦い方を身につけてはいるし、実際人間に襲われたこともある。
だが風間様の殺気は、次元が違った。
為す術なく海に飲み込まれた、ちっぽけな虫のような気分にさせられた。

だがそれよりも、私が恐かったのは。
殺気ではなく、風間様の態度だった。
また食事をご一緒しても良いかと尋ねて、断られるのが恐かった。
共に散歩に出れば、もしかしたら以前のように私のことなど気にもかけない歩調で先を歩いて行ってしまうかもしれない。
そう思うと、足が竦んだ。

私はいつの間にか、風間様のさりげない優しさに甘えていたのだ。
その優しさとて、彼の本心ではなく、あくまでも飾り物の妻を迎えるために用意された上辺だけのものだというのに。
私はきっと、勘違いをし始めていたのかもしれない。
もしかしたらこの人に、大切にされているのではないか、と。
そして調子に乗った結果が、これだ。

「ばか、みたい」

箸を手にしてみたものの、膳は一向に減らなかった。



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