[18]その緊張は誰がため空いた湯呑みを片付けるべく勝手場に顔を出すと、そこには珍しくお菊さんがいた。
「お菊さん、どうされたんですか?」
「ナマエ様!」
その呼び方に、苦笑する。
「様はやめてくださいと、お願いしているのに」
お菊さんが私に敬語を使う理由などないのに、姫様のお客様だからと言ってそれはそれは丁寧に接してくれる。
嬉しいような寂しいような、複雑な心境だ。
「それが、料理人が体調を崩して倒れてしまいまして……」
「あら、風邪ですか?」
「はい。ここのところの寒さが原因でしょうか」
そう言って、お菊さんは困った顔をした。
この屋敷は人が少ないから、料理人は二人しか雇っていない。
うち一人が風邪で倒れ、もう一人はいま休暇で実家に帰っているそうだ。
「お恥ずかしながら、私はどうも料理が……」
お菊さんがそう言って、申し訳なさそうに俯いた。
なるほど、この人にも苦手なことがあったのか。
少し意外な事実に、私は思わず笑ってしまった。
「そういうことでしたら、私が作りますよ」
「えっ?」
「任せて下さい。こう見えて、料理は得意なんです」
「いえ、でも。ナマエ様にそんなことをお願いするわけには、」
「いいんです。たまには料理もしたいと思ってましたし」
決して嘘ではない。
ここに来てからすっかり客人扱いで何もさせて貰えていないが、元々家事全般は得意だし好きなのだ。
たまには料理もしてみたいというのは、紛れもない本音だ。
尚も渋るお菊さんを説き伏せ、私は久しぶりに前垂れを着けた。
使えそうな材料を確認して、献立を考える。
「お浸しと、お味噌汁と…里芋があるから煮っ転がしにしようかな。あとはお魚を焼いて……」
昼餉まではあと一刻程度。
私はとりあえず米を炊くところから始めた。
そして。
「ありがとうございます!」
出来上がったと告げれば、お菊さんは飛び上がらんばかりの勢いでお礼を言ってくれた。
本当に困って、料亭に買いに行こうかとまで思っていたらしい。
大袈裟な謝罪を適当なところで切り上げてもらい、私は配膳を使用人に任せて勝手場を後にした。
代わりに作ると言った時は、その場の流れでそう申し出てしまい、あまり深く考えていなかった。
だが、よくよく考えてみるとこれは、初めて風間様に私の手料理を振る舞う、ということだ。
配膳された昼餉を見下ろして、私は今更になって少し緊張感を覚えた。
料理人の作った普段の膳の味など考えず、私自身の感覚で作ってしまったが、果たして風間様の口に合うだろうか。
この人は世辞を好まない。
気に入らないと思えば平気で切り捨てる。
一言不味いとでも言われようものなら、何と言って謝ろうか。
私は箸を取ってみたものの、風間様の反応が気になってしまい、料理に手をつけず風間様の顔を窺った。
風間様が相変わらず美しい所作でお浸しを摘み上げ、口元に運ぶ。
咀嚼して嚥下するまでの一連の流れを、私は恐々見守った。
一口目を食べ終えた風間様が、眉間に皺を寄せる。
やはり、違いに気付くらしい。
舌が肥えているというか、感覚が鋭いというか。
「この膳を作ったのは誰か、知っているか」
その気怠げな声音に隠された心情を、図りかねる。
美味しくないだろうか。
作った人を確認して、文句を言うつもりだろうか。
知りませんとしらばっくれてみようか。
だが、誰かに聞けばすぐに分かってしまうことだ。
「私ですが」
「……お前が?」
私は諦めて素直に白状した。
すると風間様は、意外そうに片眉を上げた。
「料理人が体調を崩したそうで、代わりに私が作りました」
「そうか」
「……あの、お口に合わないようでしたら作り直して参りますが」
そう申し出ると、風間様は何も言わずに汁物の椀を手に取った。
そのまま、煮物、焼き魚と箸が伸びる。
返答を得られず困惑した私は、自分の食事も忘れてその様子を見守った。
「……冷めるぞ」
「えっ、あ、はい」
そんな私に気付いたのか、風間様が食べるようにと促してくる。
口に合うか合わないかについての返事はなかったが、とりあえずは食べてくれているのだしと、私はようやく膳に手をつけた。
prev|
next