ほろ苦く溶けて[1]
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人間の五感の中で、最も記憶に残るのは嗅覚だと言われている。
視覚や聴覚、味覚、触覚が脳の表面にある大脳皮質に到達し、そこから五感を感じる大脳辺縁系に伝わるのに対し、嗅覚だけは大脳辺縁系に直行するためらしい。

何が言いたいかと言うとつまり俺は、あの日の苦い香りを忘れられないでいる。

土方部長を探しに来たはずの喫煙所で、彼女と出会ってから二週間。
俺の頭はいつだって、すっかりあの日の口づけに支配されていた。
初対面の、名前も知らない女性から、不意打ちでされた口づけ。
その後何の音沙汰もないということは、あの口づけに意味などなかった、ということは明白だ。
そもそもお互い名乗ってもいないし、所属する部署すら知らないのだ。

同じ会社に勤めているということは、間違いない。
俺はあの日の翌日から、意識して喫煙所を窺うようになった。
帰り際、用もないのに遠回りして喫煙所の前を殊更ゆっくり歩いてみたり。
喫煙所の横に設置された自動販売機で買った珈琲を、今まではデスクに戻ってから飲んでいたのだが、わざと喫煙所の前で飲んでみたりもした。

そうこうしているうちに、あの口づけの3日後、俺は再び彼女の姿を見つけた。
初めて会った時とは色の違うパンツスーツ。
だが髪型や立ち姿は、あの日と同じだった。
しかしその時喫煙所には他にも何人かの社員がいて、まさか話しかけられるはずもなく。
ガラス越しに見つめているうちに、彼女は煙草を吸い終えて出て行ってしまった。
その後を追えば所属する部署くらいは分かったのかもしれないが、俺にそんな度胸はなかった。

その後も何度か喫煙所で彼女を見かけたが、他には誰もいない、という好機には巡り会えなかった。
そもそも、例えそんな状況を前にしたとて、もう一度声を掛けられるかどうかは自信がない。
あの日の俺は、間違いなくどうかしていたのだ。

だが、このままでは終わりたくない、という思いは本心だった。
彼女にとっては全く意味のない、ただのお遊びだったのかもしれない。
そもそも俺は、そういった軽いタイプの女性は好まなかったはずだ。
しかし今は、どうしても彼女との接点を作りたいと願っている。



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