bitter and sweet
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俺はこれまでの人生で一度も、煙草というものを口にしたことがなかった。

嫌煙家、というわけではない。
歩き煙草や吸殻のポイ捨てといったマナー違反には憤りを感じるが、定められたルールを守った上で自分の責任で煙草を吸う分には個人の自由だと思っている。
煙草の良さ、というものは分からないが、喫煙者にとってはきっとなくてはならないもの、なのだろう。
例えば俺の上司の土方部長は、俗に言うヘビースモーカーと呼ばれる人種だ。
土方部長がオフィスにいなければ喫煙所を探せ、とは、俺の部署では誰もが知っている暗黙の了解である。

しかし、今。
俺はビルの中に設置された喫煙所を外から窺い、珍しく当てが外れたことを知った。
全面ガラス張りの喫煙所に、土方部長の姿はない。

「ここではない、か」

その代わり、喫煙所の中には女性が一人立っていた。
少し、珍しく感じた。
勿論女性が煙草を吸っていても可笑しくはないのだが、喫煙者の比率というのは男性の方が圧倒的に多い。
この喫煙所で女性を見かけることは珍しかった。

何となく興味を持って、俺はその女性の後ろ姿を眺めた。
黒のパンツスーツ姿で、左手にシガレットケースらしき物を持っている。
落ち着いた茶系の色の髪は、後頭部で綺麗に纏められていた。

その後ろ姿をまじまじと見つめていた俺は、ふと我に返って慌てて視線を逸らした。
一体何をしているのか。
俺は妙な緊張感に駆られ、急いでその場を立ち去ろうとした。
だが、その時。
ずっと向こうを向いていた女性が、不意にこちらを振り返ったのだ。
ガラスを一枚挟んで、彼女と目が合う。
その瞬間、俺はなぜか動けなくなってその場に固まった。

女性は右手の指に挟んだ煙草を、ゆっくりと口元に近づけ、その唇で咥えた。
一呼吸置いて、またその煙草が指に移る。
そして、薄っすらと白く吐き出される煙。
その一連の動作に、俺は呼吸も忘れて魅入った。
なぜか、視線が逸らせなかった。

彼女は俺のことなど当然意識しているはずもなく、既にどこか別の方を向いている。
しかし俺の足は、まるで何かに引き寄せられるかのように喫煙所に近付いた。
そして、人生で初めて、そのドアを開けた。

中に入ると、換気が追いついていないのか、独特の匂いが鼻をついた。
煙草の匂いになど慣れていない俺は、思わず小さく咳き込む。
しかしそれには構わず、ゆっくりと奥に立っている彼女に近付いた。
彼女は俺の方をちらりと見て、しかし同じ部署の社員ではないことを知って、軽い会釈だけを寄越した。
恐らくこれが知り合いであれば、何かしら会話が始まるのだろう。
喫煙所は、良いコミュニケーションの場だと聞く。

そこまで来て俺は、避けようのない現実に直面した。
後先考えずに喫煙所に入ってみたはいいが、喫煙者でない俺は当然煙草など持っていないのだ。
喫煙所に入ってきたのに煙草を吸わないなんて、不審にもほどがある。
俺は急激に汗ばんできた両手で、場を取り繕うかのように、歪んでもいないネクタイを直す振りをした。
しかしそんなことで間がもつはずもない。
いよいよ窮地に追い込まれた俺は、次の瞬間、己自身でも驚くような行動に出た。

「…一本、貰えないだろうか」

彼女は、驚いた顔で俺を見た。
当然だ。
初対面の男がいきなり挨拶もなしに煙草を要求したのだ、普通誰だって驚く。

「…あ、いや。その、だな…」

左右に分けられた長めの前髪越しに訝しげな視線を向けられ、俺は慌てて次の言葉を探した。
しかし上手い言い訳など思いつくはずもない。

「す、すまない。今言ったことは忘れてくれ」

いよいよ居た堪れなくなった俺は、早口でそう言うと急いで踵を返した。
しかしその時、想定外の出来事が起こった。

「いいですよ」

それが背後の女性から己へと掛けられた声であると気付くのに、しばらくの時間を要した。
初めて聞いた彼女の声は、想像していたよりもハスキーで、かつ艶っぽかった。
ゆっくりと振り返ればそこに、微笑む彼女が立っていた。

そして。

「どうぞ」

彼女はそう言って、今の今まで自分が咥えていた吸い差しの煙草を俺に差し出した。

「…な、あんた、」

絶句した。
差し出された煙草を見、そして反射的に、それが先ほどまで咥えられていた唇を見た。
ふっくらとした唇に乗せられた紅いルージュが、煙草にも微かについている。

「ああ、それとも、」

人から煙草を貰おうとしている人間が贅沢を言うつもりはないが、しかし新しい煙草を取り出して渡すのが普通ではないだろうか。
そうしないと、これは間接キス、ということになる。
初対面の男女がすることではないはずだ。
混乱し切って殆ど動きの停止した俺の脳を、彼女の声が素通りする。

「こっちの方が、いい?」

不意打ちで、引かれたネクタイ。
気がつけば目の前に、彼女の紅い唇。
己の唇に何か温かい物が触れ、そして口内に充満した苦味。

キスをされたのだ、と気付いた時にはもう、唇は離れていた。

「…なっ、なに、を…」

俺は慌てて口元を抑え、無意識に数歩後退った。
そんな俺を見て、彼女はくすり、と笑い。

「ご馳走さま」

そう言って、短くなった煙草を水の入った吸殻入れに落とした。
じゅっ、と火の消える音がする。
彼女はそのまま、まるで何事もなかったかのように俺の横を通り過ぎ、喫煙所を出て行った。
ヒールの音が遠ざかり、ドアが自動で閉まった瞬間にその音は消えた。

後に残ったのは。
舌を痺れさせるような、苦い香りだけだった。


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