唇までの距離[1]
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落ち着け、落ち着くのだ、斎藤一。

そう、心の中で唱えること数十回。
この暴れる鼓動がその命令に従う気配は、ない。

シャワー、借りていい?
彼女の衝撃発言から20分後。
俺はリビングのソファで一人、逸る鼓動を持て余しながらバスルームから届くシャワーの水音を聞いている。
確かに書き置きには、家の中のものは好きに使って構わない旨を記した。
だがその時は、まさか事態がこんな展開を迎えるだなんて想像もしていなかった。

マンションの下で俺の帰りを待っていてくれた、彼女。
彼女の誤解を解こうと必死になるあまりに口を滑らせ、全く計画外の告白をしてしまった俺。
しかし、何もかも終わったと項垂れた俺を待っていたのは、まさかの色よい返事だったのだ。
すっかり舞い上がった俺は、彼女のシャワーを借りたいという発言に一も二もなく頷いた訳だが、今にして思う。

「これは、どういう意味なのだ…」

女性が、交際している男の家でシャワーを浴びる。
ということは、その先をしても良いということなのだろうか。
生憎女性にシャワーを貸すなど今までになかった経験故、この展開をどう捉えて良いのか分からない。
ただシャワーを浴びたかっただけ、と言われてしまえばそれまでだ。

そもそも俺たちは、交際、をしていると言えるのだろうか。
20分前、確かに俺は彼女を好いていると伝え、彼女は私も、と答えてくれた。
それはつまり、俺たちは互いに想い合っているということだ、と思う。
だが俺はその状況にすっかり固まってしまい、交際をしてほしいと伝えるのを失念していた。
ようやくそのことに思い至った時には、既に彼女はバスルームの中。
すっかり言う機会を逸してしまった。

「どうすればいいのだ…出てきたら言うべきだろうか…いや、今さらだろうか…」

ああでもないこうでもないと迷走していた俺の思考は、次の瞬間聞こえて来た音に再び停止した。
バスルームのドアが開く、音。
彼女が出て来たのだ。
今、壁一枚隔てた洗面所兼脱衣所に、裸の彼女が立っているという事実に、俺の心臓は早鐘のように胸を叩いた。
彼女があの長い髪をバスタオルで拭く様子が、脳内で勝手に再生される。
濡れた髪は、いつもと違い乱れているのだろうか。
濡れて身体に張り付くのだろうか。

「…何を、考えているのだ」

やめろ、と己に言い聞かせる。
言い聞かせているはずなのに、想像は留まるところを知らない。
彼女が髪を拭き、次いで胸元を、腰を、脚を。
順に拭いていく様が、見たこともない故の勝手な想像で脳内を駆け巡る。
気がつけば手に酷い汗を握っており、俺は慌てて両手をシャツで拭った。

しばらくすると、彼女が洗面所のドアを開ける音がして。
いよいよ対面することになると、俺はどこに視線を向ければ良いのか分からず狼狽えた。
間もなく彼女が開けるであろうリビングのドアを注視しているのは気まずい。
彼女に変な警戒心を持たれないとも限らない。
だが、だったらどこを見ていれば良いというのか。
今さらになって、テレビを付けておかなかったことを後悔する。
焦って視線を彷徨わせる俺が、そのやり場を決め兼ねるうちに。
さして長くもない廊下を歩いて来た彼女が、ドアを押し開けた。


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