想いが溢れて零れる前に[10]「おはよう」
オフィスに響く、彼女の声。
パソコンから視線を外して振り向けば、そこには俺の好きな笑顔があった。
「おはようございます」
軽く頭を下げる。
オフィスのあちこちから、同じように彼女へ挨拶する声が聞こえた。
週の始まり、月曜日。
先週のプロジェクト成功を受け、朝だというのにオフィスは活気付いている。
「斎藤君。プロジェクトが終わったばかりで悪いんだけど」
グレーのパンツスーツ。
靡く黒髪。
ヒールが床を弾く音。
「これ、お願いしていいかな」
そう言って差し出されるファイル。
「勿論です」
受け取って頷けば、ありがとう、と笑顔が返ってきた。
彼女は自分の椅子に座ると、デスクに積まれた書類に目を通し始める。
その姿をしばらく見つめてから、手渡されたファイルを開いた。
せっかくの頼まれごとだ、出来るだけ早く仕上げてみせたい。
そう思って1ページ目に視線を落とすと、水色の少し大きめな付箋が貼ってあった。
今夜、行ってもいい?
一瞬で、顔に熱が集まる。
慌ててファイルを閉じ、俯いた。
どう見てもこれは挙動不審だ。
大きく深呼吸を3回。
平静を装ってゆっくりと顔を上げ、ちらりと彼女の方に視線を送れば。
彼女は何食わぬ顔で書類に目を通している。
こんなのは、狡い。
まさかこんな不意打ちがあるなんて、予想もしていなかった。
あの日。
私も、とはにかんだ彼女を思い出す。
まるで幼い少女みたいに、照れた反応を見せてくれて。
その発言と表情とに再び固まった俺を尻目に、今度はひどく妖艶な笑顔で。
敬語じゃない斎藤君、いいね、だなんて。
耳元で囁かれた。
最低な言い方をしよう。
俺は、それだけで感じた。
堪らなく身体の奥が疼いた。
そして、彼女からのとどめの一言。
シャワー、借りていい?
否と答えるはずが、あっただろうか。
恐る恐るもう一度、ファイルを開いて。
付箋をそっと剥がす。
否と答えるはずが、あるだろうか。
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