想いが溢れて零れる前に[8]俺は目を疑った。
一瞬、帰る場所を間違えたのかと思った。
一日の大半を公園のベンチで項垂れて過ごした土曜日の夕方。
まさか公園で夜明かしするわけにもいかず、重い足取りで帰路についた。
そうして帰りついた自宅マンションの、エントランスへと続く自動ドアの脇。
「ミョウジ、さん…」
昨夜と全く同じ格好をした、彼女の姿があった。
どんな顔をすればよいのかなどと悩んでいたことも忘れて、慌てて駆け寄った。
俺に気づいた彼女が、顔を上げる。
そこにあったのは、いつもの笑顔ではなかった。
「…な、何故…ここに…」
時刻は午後6時。
どんな寝坊をしたとしても、まさかこの時間まで寝ていたなどということはあり得まい。
俺を見上げる彼女の表情は、なぜか悲しげに見えた。
「斎藤君のこと、待ってたの」
そう言って差し出されたのは、俺が今朝テーブルにメモと一緒に置いてきたスペアキー。
これを返すために、待っていてくれたのだろうか。
「な…あんた…、俺は、郵便受けに入れておいてくれればよいと書いたはずですが」
「…うん、見たよ。でも、ちゃんと謝りたかったから」
「…あんたに詫びられる覚えは、ありません」
色々と予想外の展開に、全く思考が追いつかず。
少しきつい口調で切り返せば、彼女が傷ついたような顔をした。
やはり、俺が自宅に連れ込んだことを怒っているのだろうか。
だが俺が謝る前に、彼女が先に口を開いた。
「ごめんね、迷惑かけて。じゃあ、それ返したから」
彼女はそう言って、俺の横を擦り抜けようとした。
いつも真っ直ぐ前を向いて歩く彼女が、俯いている。
もう俺の顔も見たくないと、そういうことだろうか。
だがこうなった以上、最後に謝らねばならないと思った。
正直に話すべきだと思った。
咄嗟に手を伸ばす。
その手首を掴めば、彼女が驚いたように身体を竦めたのが分かった。
「…すまない」
掴んだ手を離す。
だが彼女は立ち止まったままでいてくれた。
「…タクシーの中で眠ったあんたを見て、その、我慢が…出来なかった。あんたと原田、さんのことは分かってるつもりだが…その、あの時は、あんたをあいつに渡したく、なかった」
言っていて情けないと、思う。
己の立場を弁えない、ただの醜い嫉妬だ。
だがもう、誤魔化すには遅すぎた。
「…だが、その、何も…何も、していない。それだけは、誓って本当だ」
口づけを、しそうになったこと。
髪の毛には口づけたこと。
それらは流石に言えなかった。
「…その、だから…すまなかった」
そう言って、頭を下げた。
沈黙が、流れた。
彼女は何も言わない。
怒っているのだろうか、それとも呆れているのだろうか。
反応を見るのが怖くて、顔が上げられない。
沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「…あの、斎藤君。左之が、どうかしたの?」
「…は?いや、だから、その…原田さんに連絡すればあんたの家も分かったはずなのに、そうしなかったのは、申し訳なかった、と」
「左之は確かに私の家を知ってる、けど。でもなんでそこで左之の名前が出て来るの?」
なんで、だと。
そんなものは決まっているだろう。
「あんた…それは、ああいう場面では彼氏に連絡するのが常套手段だろう」
確かに俺が悪かった。
それは認める。
だが、俺とて傷ついていないわけではない。
それなのに、こんなことを言わされるとは。
流石につらかった。
分かってはいても、身を切られるような痛みがあった。
だが次の瞬間、その痛みは驚きに形を変えた。
「…私、左之と付き合って、ないよ?」
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