想いが溢れて零れる前に[6]
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普段俺が寝ているベッドに、いま。
ずっと想い続けていた人が、あどけない寝顔を晒して眠っている。
その倒錯的な光景は、俺を脳髄まで麻痺させた。

自宅マンションの前に着き、その身体を抱えあげても彼女は目を覚まさなかった。
その瞬間、最後の砦が崩壊する。
俺は彼女を横抱きにし、自宅へと連れ込んだ。
ベッドに寝かせ、窮屈だろうからとジャケットを脱がせた。
その時ばかりは本当に、下心ではなく寝心地を心配しての行動だった。
それなのに。
ジャケットを取り払った途端、隠されていた色気が決壊したダムから溢れる水のように沸き上がり、俺の視線を釘付けにした。
掛け布団をかけてやらねばと思っていたことなど忘れ、ベッドの脇に膝をつく。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。

初めて出逢ったあの日から、触れてみたいと切望していた姿が目の前にある。
震える手で、真っ白なシーツに広がった黒髪に触れた。
思い描いていた通り、その絹のような触り心地の髪は、全く何の抵抗もなく指から零れ落ちた。
もう一度、そっと掬い上げる。
窓から差し込む街灯の明かりに照らされた艶やかな濡れ羽色は、恐ろしく美しかった。

緊張に強張る手を、ゆっくりと彼女の頬に滑らせる。
アルコールのせいか、少しの熱を孕んでいた。
頬骨の辺りから、顎の下まで。
細っそりとした線をなぞる。
そのまま少し指を持ち上げれば、薄い唇があった。
良く言われる、色気の塊のようなふくよかな厚みはない。
だがそれが、俺には堪らなく扇情的だった。

ゆっくりと、前屈みになる。
顔を近づけて、その唇を見つめる。
あと少しで、触れられる、その時。
どこからか聞こえた、バイブレーションの音。
俺は飛び上がらんばかりに驚いて、大きく仰け反った。
心臓が暴れていた。
彼女が起きる様子はない。
俺は大きく深呼吸してから、音の出処を探った。
そのパターンは、己のスマートフォンのものではない。
ということは、彼女のものか。
思いつくままに、先ほど脱がせた彼女のジャケットを引き寄せてそのポケットに手を入れた。
案の定、彼女のスマートフォンが振動している。
取り出して、その画面を確認して。
俺は、頭から冷水を浴びせられた気がした。

着信、そして"左之"の文字。

俺の手の中でしばらく震えていたスマートフォンは、やがて静かになった。
元の静けさを取り戻した寝室。
だが俺は、元通りというわけにはいかなかった。
急激に襲ってくる、罪悪感。
俺はのろのろと立ち上がり、サイドボードに彼女のスマートフォンを置いた。
何の、連絡だったのだろうか。
原田はいま、三次会の最中のはずだ。
ちゃんと家に帰れたかどうか、心配してかけてきたのだろうか。
原田に連絡し、この状況を説明した方がよいだろうか。
しかし結局、それは出来なかった。

俺は彼女のジャケットをハンガーにかけると、音を立てないよう注意を払いながらカーテンを閉めた。
部屋が暗闇に包まれる。
目が慣れてくるまで、俺はその場に立ち尽くした。
そして、もう一度ベッドに歩み寄り。
もう一度、その脇に膝をついた。

「…すまない。これが、最後だ」

闇と同化するような黒髪を、手にとって。
その艶やかな髪に、そっと口づけた。
微かな甘い香りが、彼女の匂いが、欲望を激しく揺さぶった。
だが俺はそれ以上何もせずに立ち上がり、寝室を後にした。


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