[68]敗者ああ、なぜ今なんだと、保科は思う。
決勝トーナメント準々決勝、対ドイツ戦。
一対零で迎えた後半三十九分。
ペナルティーキックいう、同点に追い付くためのラストチャンスが与えられた。
相手のゴールまで、約十一メートル。
プロの試合におけるPK成功率は、約八割。
ボールを託されたのはキャプテンの満でも、今大会で日本の得点王である聖也でもなく、保科だった。
PKの精度ならお前が一番だと、この局面を任される。
プロ入りして七年目、保科は公式戦でPKを失敗したことが一度もなかった。
ボールをペナルティーマークの上に。
保科は目を閉じ、一度深呼吸をした。
スタンドの熱気、チームメイトの視線、この一本のキックが持つ意味、全てを頭から追い出す。
目を開けてボールの前に立った瞬間、保科はボールとゴール、そしてキーパーだけを意識に捉えた。
ホイッスルが鳴り響く。
短い助走、必ず決める。
保科が一歩を踏み出したその瞬間、脳内を記憶が錯綜した。
フラッシュバックか、映像のコマ送りか。
まず最初に過ぎったのは、七年前の記憶だった。
高校三年、選手権予選決勝。
PKを相手キーパーに止められた、最後の記憶である。
脳内の映像は一瞬で切り替わった。
遡ることさらに三年、今度は全中決勝だ。
がん、と視界が揺れた。
まだ打っていないはずのシュートがクロスバーを超える。
視界の端で、ここにいるはずのない海藤がピッチに倒れる。
違う、これは違う、今ではない。
過去の出来事だ。
保科は咄嗟にボールとゴールの位置関係を再確認し、右足を振り抜いた。
ボールは思い通りのコースを描いて、ゴールに向かい飛んでいく。
誰の目から見ても、そのまま入りそうなシュートだろう。
だが保科は、その動きをスローモーションのように見つめながら敗戦の足音を聞いていた。
ああ、駄目だ、これは。
相手キーパーが跳躍し、目一杯に腕を伸ばす。
その指先に弾かれたボールがクロスバーの上を越えた瞬間、保科は無意識のうちに顔を手で覆っていた。
その後のことは、正直よく覚えていない。
保科が感じていた通り、そのPKが、ドイツに追い付くためのラストチャンスだった。
五分後、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
日本は一対零でドイツに敗れ、準々決勝で敗退した。
サッカーはチーム競技であり、決して一人では成り立たない。
それを骨の髄まで叩き込まれているチームメイトたちは誰一人として保科を責めなかった。
試合後、ピッチに崩れ落ちた選手達一人ひとりの肩を叩いた満は最後に保科の肩に腕を回し、何も言うことなくピッチを去った。
監督に何を言われたのか、保科は全く覚えていない。
気が付けばカザンのベースキャンプに戻って来ていた。
負けた。
日本は、保科は、負けたのだ。
格上のドイツ相手に、日本はよく攻めよく守った。
保科がPKを決めていれば延長戦に突入し、逆転のチャンスもあっただろう。
勿論、保科が決めたからといって確実に勝てるわけではない。
だがそれでも可能性は繋がったのに。
勝利への道を、保科が断ってしまった。
疲労と無念を滲ませたチームメイトたちは、何も言わない。
こういう時に遠慮容赦なく思ったことを言う満でさえ、口を噤んでいた。
保科に気を遣っているのか、それとも各々が己の責任を感じているのか。
いっそ責めてくれと、保科は思った。
肝心な時にお前はと、胸倉を掴んで怒鳴ってほしかった。
しかしそれは保科の甘えだ。
責められた方が楽だという、保科の弱さだ。
勿論、保科を叩く者は多いだろう。
ラウンド16で、保科三兄弟の鮮やかな連携プレーが云々と褒め称えたメディアは今日、一転して保科を戦犯扱いしているはずである。
日本のサッカーファンも、保科に失望しただろう。
PKなんて、決まるのが当然とばかりに思われているプレーだ。
それをあの大事な局面で失敗するなんて、痛恨の失態以外の何ものでもない。
誰よりも保科自身が、己を許せなかった。
なぜあの一瞬、集中力を切らしたのか。
疲労もプレッシャーも言い訳にはならない。
あの瞬間がなければ、もっとキーパーの動きを見られたはずだ。
止められることのないシュートを打てたかもしれない。
それなのに、なぜ。
十年前の罪を、なぜあの瞬間に。
眠れない夜は、重苦しい朝を連れて来た。
ずっとベッドに腰掛けていた保科は夜の間、何度彼女の声を聞きたいと願っただろうか。
だが同時に、今何よりも聞きたくない声もまた、彼女のものだった。
日本の決勝トーナメント進出を、保科たちの勝利を、あんなに喜んでくれたのだ。
半月後に、と、日本の優勝を冗談でも誇張でもなく期待してくれていたのだ。
その彼女は昨日の試合を観て、何を感じただろうか。
保科がPKを失敗した瞬間、彼女は何を思っただろうか。
泣かせてしまったか、悔しい思いをさせてしまったか。
それとも彼女も、保科に失望しただろうか。
彼女の声を聞くことが、彼女の反応を知ることが怖かった。
マスコミだろうがファンだろうが、好きなことを言えばいいと思う。
事実、保科は責められるべき醜態を晒したのだ。
勝ち負けの問題だけではない。
多額の金が動き、誰かが責任を取る。
W杯とはそういう大会だ。
どんな批判も誹謗中傷も、甘んじて受け入れるつもりだった。
しかし、彼女にだけは。
彼女にだけは、失望されなくなかった。
それだけは耐えられないと、保科は思った。
日本代表は、基本的に揃って帰国する。
だが、海外に籍を置く数名の選手は現地でチームから離れることになっていた。
満もその一人だ。
「タク」
解散の直前、帰国の支度を終えたところで満に声を掛けられ、保科は黙って続きを待った。
試合後に「よくやった、お疲れ」と言われ、それに保科が無言を貫いて以来、一度も言葉を交わしていなかったのだ。
何を言われても仕方ないと思っていた。
だが保科の予想に反し、満の話は試合のことではなかった。
「お前と聖也には先に言っておくが、引退することにしたよ」
その一言は、容易く保科の息を止める。
愕然と目を見開いた保科の前で、満は苦笑した。
「実はもう、随分前から決めてたんだ。この大会が最後だってな。オランダのチームにはもう、来シーズンは契約しないと話してある。この後、正式に契約を終わらせてくるつもりだ」
満の声は淡々としており、言葉通り以前から引退を決めていたのだと分かった。
「………なぜ、……満兄、どうして、」
味方から見ても素晴らしいプレーだった。
満はキャプテンとして立派にチームを率いていた。
彼は今三十二歳で、全盛期はまだ終わらないだろう。
それなのに、どうして。
「言葉にすると陳腐だが、限界が見えちまったよ」
保科に視線を向けることなく、満はそう言った。
その横顔はいつになく静かで、いっそ穏やかにさえ見える。
「サッカーは好きだからな。何らかの形で関わり続けるつもりだが、プロとしてはもう終わりにするよ」
いつも強気な目元に、疲労が滲んでいた。
「悪いな、まだ世界を獲る前だったのに」
そこでようやく、満が保科の方に視線を向ける。
凪いだ瞳が、じっと保科を見つめた。
保科には何も言えない。
「最後に三人でやれた。それに満足しちまった俺は、もう終わりだ。あのイングランド戦は、最高だったよ」
そう言って、満は静かに笑った。
引き止めるどころか、返す言葉の一つすら見つけられず黙り込んだ保科の肩をぽんと叩き、満はその場を歩き去る。
残された保科は呆然と立ち尽くした。
分かっていたはずだ。
これが最後のチャンスとなる可能性は高く、二度はないと考えて試合に挑んだ。
だが覚悟していても、実際に現実となれば話は違う。
まさかこんな急に引退を宣言されるとは予想だにしていなかったのだ。
満がこの大会を最後と定めていたなんて、保科は知らなかった。
息苦しい後悔が、さらにその重さを増す。
兄の最後の挑戦を、正真正銘最後の機会を、弟である自分が奪ったのか。
同じ夢を見た。
同じ目的に向かって走り続ける兄の背を、道を示し続けてくれた兄の背を、保科はついぞ捉えることが出来ないまま。
共に同じピッチに立つ機会を、保科は永遠に失ってしまった。
これで、何度目だ。
己は何度、人の夢を潰せばいい。
海藤、浦。
中学高校と、チームメイトたちの夢を叶えてやれないままここまで来た。
そしてついには、敬愛する兄の夢まで終わらせてしまったのか。
「…………ナマエ、」
無意識のうちに零れた名前に、保科は唇を噛む。
お願いだからあなただけは離れないでくれと、保科は思った。
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