[67]開幕
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W杯本大会は、六月十四日に開幕した。
グループリーグにおける日本の初戦は、十九日。
サランスクでの対コロンビア戦に、日本は二対一で白星を飾った。
その後、エカテリンブルクに移動し、二十四日に二戦目。
セネガルを三対二で制して二勝目を挙げた。
グループリーグの最終戦は、二十八日の対ポーランド戦。
試合は二対二の引き分けに終わったが、獲得した勝点の結果、日本は一位でグループリーグを突破した。
日本がW杯の決勝トーナメントに進出するのは、これが史上三度目のことである。


七月一日、午前七時。
保科は、ベースキャンプ地のあるカザンから彼女に電話をかけた。
日本との時差は六時間。
恐らく彼女は、昼食を終えた頃だろう。

『もしもし』

半月ぶりの彼女の声が鼓膜を揺らす。
保科はスマートフォンを耳に寄せ、そっと頬を緩めた。

「誕生日おめでとう」
『え、あ、ありがとうございます。って、そんなことはいいんですよ!拓己さんっ!』

これだけは絶対に伝えると決めていたことを最初に口にすれば、彼女は慌てた様子で言い募る。

『グループリーグ突破、おめでとうございます!』

自分のことのように嬉しそうな声音。
興奮した彼女の口調に、笑みが深くなった。

「うん」

分かっていた。
彼女ならきっと喜んでくれると知っていた。
それでもこうして声を聞くと、嬉しさが身体中に広がる。

『観てましたよ、試合。もう凄かったです!コロンビア戦の先制点に繋がったロングパスが本当に綺麗で、目を奪われて、あと、後半の二点目前のカットインが最高に格好良くて。セネガル戦のロングシュートなんてもう涙が出ました。あと、あと、ポーランド戦のシュートブロックとか、もう神様かと思いましたほんと』

いつにない早口で、保科のプレーに対する感想が捲し立てられた。
保科が相槌を打つ間もない。
最初はシュートやゴールに繋がったアシストという、それなりに目立ったプレーの話だったが、次第にそれはどんどん細かくなり、最終的には実況席の解説者でもそんなことまで言及しないだろうという域に至った。
恐らく試合中継を録画したのであろう彼女は、それを一体何度観てくれたのだろうか。
五分近く保科のプレーについて熱弁した彼女は、不意に我に返ったのか一旦口を噤み、そして急に不安げな声を出した。

『ごめんなさい、朝からこんな。時間とか、大丈夫でした?』

時差の存在を思い出したらしい彼女が、保科は寝起きだと思ったのか、突然声を潜める。
その落差と態度に、保科はつい噴き出した。
くつりくつりと喉を鳴らせば、やがて彼女も一緒になって笑う気配。

「問題ない。もうランニングは終えている」
『早いんですね。そっちはえっと……朝の七時くらいでしたっけ?』
「うん、このあと朝食だ。正直、あなたの料理が恋しい」

時差も寒暖差も何とかなる。
だが、ロシアに来て半月。
保科の不満は彼女に会えないことと、彼女の手料理を食べられないことだった。

『ふふ、あと半月我慢して下さい。保科さんの好きなものをいっぱい作って待ってますから』
「うん」

保科は、胸があたたかくなるのを感じる。
それは試合前の高揚感や、勝利の喜びとはまた異なる熱だ。
沁み渡るような、満たされるような、甘くて愛おしい温もり。
この場に彼女がいないことだけが残念だった。
連れて来られたらいいのにと、そんな非現実的なことまで考えてしまう。

「もう少し、」
『え?』
「もう少し、声を聞いていたい」

保科の我儘に、彼女は笑った。
そして彼女曰く他愛のない、日常の話をしてくれる。
新作の執筆はそこそこ順調だが、試合のある日は緊張して仕事に手がつかないこと。
たまたま連絡を取り合った元聖蹟のメンバーから保科三兄弟が凄いと言われ、擽ったい気持ちになったこと。
試しに作ってみた甘さ控えめのアップルパイが美味しく出来たから、今度保科にも食べてほしいということ。
雑誌に載っていた保科のインタビュー記事を読んだこと。
先程とは異なりゆっくりと流れ込んでくる彼女の声を、保科は時折頷きながら聞いていた。
試合の連続で疲弊した精神が魔法のように癒される。
決勝トーナメントにおける日本の試合は明後日からだ。
初戦のラウンド16、日本が決勝トーナメントで勝利を収めベストエイトに残ったことはかつて一度もない。
この先は、たった一度の負けが全ての終わりを意味した。
保科の夢、兄たちの夢、彼女の期待。
全て背負って明後日、保科はピッチに立つ。

『怪我には気を付けて下さいね』
「うん。また連絡する」
『はい、待ってます』

最後にそう言った彼女の声を聞いてから通話を終えた。


そして、モスクワで迎えた決勝トーナメント初戦。
日本はFIFAランキング十五位のイングランドを相手に奮戦し、延長戦の結果二対一で勝ち星を飾った。
恐らく、日本国内はお祭り騒ぎとなっただろう。
日本サッカー史上初、W杯でのベストエイト進出を果たしたのだ。
保科としても、非常に出来の良い試合だったと思えた。
先制点を決めたのは聖也で、決勝点を決めたのは満である。
兄たちの頼もしい背中に目を奪われた試合でもあった。
三十分の延長戦を終えた途端、二人は前線からセンターサークルまで全力で駆けて来て、両側から保科の肩に腕を回し笑ったのだ。
昔、ひたすらボールを追いかけることに夢中だったあの頃のように、無邪気に。
やったぞタク、と。
満面の笑みで、二人は保科の頭を撫で回した。
二点とも、保科のアシストによるゴールだったのだ。
そんな三人の周囲にチームメイトたちが駆け寄り、青い大きな塊が出来た。

四日後にサマーラで行われる準々決勝、相手はFIFAランキング一位のドイツである。
サッカーに限らず全てのスポーツにおいて、不動の最強はない。
誰しもが必ず負けを経験する。
それでもドイツと聞けば、サッカーが強い国だと皆が知っているだろう。
次の試合は無理だ、ベストエイトに進出しただけで充分だ、というメディアの声があるのは保科も知っていた。
保科自身、データ上で見れば敗戦はほぼ確実だと理解している。
だが、この挑戦を諦めるという選択肢は当然存在しなかった。




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