[69]帰国
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その日の午前中に、保科たちは揃いのスーツを身に纏って帰国した。
成田で待ち伏せていたマスコミが、一斉にフラッシュを焚く。
あちこちから質問が矢継ぎ早に投げ掛けられたが、正式な取材ではないそれらに答える選手は誰もいなかった。
皆、決して軽いとは言い難い足取りで黙々と進む。
保科は、己の名前が一際大きく叫ばれるのを黙って聞いていた。

「最後のPKはなぜ失敗したんでしょうか?!」

当然だと思う。
あの試合を観ていれば、誰だってそう聞きたくなるだろう。
正面を向いて歩いていた保科は、鋭く質問してきた記者の方に視線を巡らせた。
しかしその姿を捉える前に、保科の視線を遮る形で隣に聖也が並ぶ。

「聞くな。胸を張れ」

耳打ちされた、低い声。
怒りを滲ませたそれに、保科は黙って頷いた。


「お前も実家に帰るだろ?」

聖也はこの足で静岡に戻るのではなく、今夜は実家で一泊するのだと言う。
保科はしばし悩み、だが結局首を横に振った。

「いえ、俺は埼玉に帰ります」
「……正直、今お前を一人にするのは心配なんだが」
「大丈夫です」
「なわけないだろ」

聖也が、困ったように後ろ頭を掻く。

「満からもよろしく言われてるんだがなぁ」
「……大丈夫です」

今はその名前さえ、保科の胸を抉るのだ。
満の気配が色濃い家に、聖也がいる家に帰りたくはなかった。

「まあいい。何かあったら連絡しろよ」
「はい」

保科は頭を下げ、聖也に背を向ける。
心配してくれているのは分かっていた。
聖也にも、勿論満にも、保科を責める気はないのだろう。
だがそれでも今は、兄たちと共にいたくないのだ。
何よりも、彼女の待つ自宅に帰りたかった。
正直、とても怖い。
もし泣かれてしまっても、原因となった保科自身に慰める資格などない。
責められるのならば甘んじて受け入れるが、彼女の言葉は誰に言われるよりも保科の精神を抉るだろう。
失望されてしまっては、彼女の心が離れてしまっては、耐え切れる自信が全くない。
それでも、あの家に帰りたいのだ。

玄関ドアの前、鍵を持って保科は最後の葛藤をする。
ここまで来て引き返すわけにはいかないのだが、それでも躊躇した。
怖い、会いたくない、それでも会いたい。
保科は意を決して鍵を回し、ゆっくりとドアを開けた。

「ーーっ」

息を呑んだのは、どちらだったのか。
玄関前の廊下には、もうすでに彼女の姿があった。
いつからかは分からないがずっと待ってくれていたのか、それとも足音が聞こえたのか。
彼女ははっと顔を上げ、保科を見た。
保科の背後でドアが閉まる。
彼女は頬を歪め、一瞬だけ泣きそうな顔になって、それでも笑った。

「ーー おかえりなさい……っ!」

その瞬間が、保科の限界だった。
PKを失敗した時も、試合に負けた時も、満の引退を聞いた時も。
決して折れることのなかった膝から、力が抜ける。
保科は崩れ落ちるようにして彼女に縋り付いた。
彼女の二の腕を掴み、胸元に顔を埋めるように崩折れた保科を、彼女が精一杯に抱きとめてくれる。
三週間ぶりの、彼女の体温、彼女の匂い。
彼女の華奢な腕が保科の頭を抱き抱えた。
柔らかな胸元の温もり、感じる鼓動。

「………ぁ、あ………っ」

胸が、息苦しいほどに激しく圧迫された。
息が詰まって、呻くような声が漏れる。
彼女が笑って出迎えてくれた。
その表情だけで、保科は彼女の心が今も傍にあることを理解出来た。
彼女は、ありのままの保科を受け入れてくれる。
そう確信した瞬間、全ての虚勢は剥がれ落ちた。
耐えて、耐え続けた悔恨の涙が、眦から滑り落ちる。
一筋零れてしまえば、もう止まらなかった。
手負いの獣のように唸り、嗚咽する。
涙が、押し隠してきた感情と共に溢れた。

悔しい、悔しい、悔しい。

どうして決められなかった。
あの一本、あのたったの一本を、どうして。
あれさえ決まっていれば、絶対に試合の流れは変わった。
逆転の可能性だって充分にあった。
優勝候補のドイツを相手に勝利出来たかもしれないのに。
その勢いで、世界の頂点に立てたかもしれないのに。
長年の夢を、兄たちの夢を、叶えられたかもしれないのに。
なぜあの一瞬で、二十年を無駄にしたのだ。

やがて保科の体重を支えきれなくなった彼女が、廊下に座り込む。
保科も一緒になって膝をつき、玄関で靴も脱がずに彼女の胸に顔を押し付けて泣いた。

どれほど、そうしていただろうか。
ようやく落ち着きを取り戻した保科の頭を、彼女がそっと撫でる。
それこそ二十年ぶりに泣き疲れるという体験をした保科は、ぐったりと彼女に凭れ掛かった。
出迎えの言葉を発して以来、彼女は一言も喋っていない。
文句も言わず、慰めの言葉も掛けず、ただひたすらに保科の悔恨を受け止めてくれた。
ずっと抱き締めていてくれた。

「…………すまない、」

やっと冷静になって、保科はこの状況を詫びる。
夏とはいえ、女性を床に長時間座り込ませるなんて、とんだ非道だ。
保科の頭上で、彼女が首を横に振る気配。
彼女は尚も優しい手つきで保科の後頭部を撫でながら、ようやく声を出した。

「楽な格好に着替えましょうか」

そう言って片手を下ろし、保科のネクタイを緩めてくれる。
そういえばスーツを着ているのだったと、保科はようやく思い出した。
彼女に手を引かれてゆっくりと立ち上がり、革靴を脱ぐ。
のろのろと寝室に入り、バッグを置いてスーツを脱いだ。
今は、このオフィシャルスーツさえ見たくない。
保科が部屋着に着替えてリビングに行くと、丁度彼女がキッチンから出て来るところだった。
冷えた水の入ったコップを手渡され、保科はそれを一気に飲み干す。
先にソファに座った彼女が、太腿をとんとんと叩いた。

「少し横になって下さい」

彼女はショートパンツを履いていて、だから太腿は素肌が剥き出しになっている。
保科が横になってその上に頬を乗せると、素肌が直接触れ合った。
その温もりに溺れて目を閉じた保科の瞼の上を、彼女が冷たいタオルで覆ってくれる。
熱を持った目元が冷やされ、気持ち良かった。
彼女はまた何も言わず、保科の蟀谷辺りを優しく撫でる。
繰り返されるその動作の一回一回が、まるで保科の胸に突き刺さった棘を一本ずつ抜いていくかのようだった。




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