[66]出陣
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六月のW杯本大会を目前に控えた、五月末のキリンチャレンジカップ。
事実上、これが日本代表の壮行試合となった。
日本代表は、ニュージーランドを相手に二対一で勝利。
うち一点は、攻撃の際はアシストに徹することの多い保科にとって代表初のゴールだった。
そしてその翌日、日本代表のW杯正式メンバーが発表される。
保科は再びMFとして、背番号六番を貰い代表入りが確定した。
二十三人の選手の中には、FWの満と聖也もいる。
さらに満は、W杯でチームキャプテンを任されることも決定した。
本人は流石に荷が重いと苦笑したが、保科としては妥当な、そして信頼出来る人選である。
本人にそう伝えたところ、お前はなんだかんだブラコンだと笑われた。

キリンチャレンジカップから二週間後が、ロシアで開催されるW杯本大会となる。
移動の前日、練習をコンディション調整のためだけの軽いメニューで終えた保科は、夕方早いうちに帰宅した。
普段より早い帰りに、仕事部屋にいた彼女が驚いた様子で顔を出す。

「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
「ごめんなさい、まだ何も用意してなくて」
「構わん」

申し訳なさそうな彼女に首を振って見せた。

「仕事中にすまない。俺のことは気にしないでくれ」
「あ、そっちは大丈夫です。資料を探していただけで、何か書いていたわけではないので。今日はもう終わりにします」

その言葉通り、振り返って部屋の電気を消した彼女はリビングに向かう。

「晩ごはん、今から作りますね」
「うん」

保科は部屋に荷物を置いて部屋着に着替え、リビングに移動した。
カウンターキッチンの向こうで、彼女がてきぱきと動いている。
彼女が保科の姿に気付き、顔を上げた。

「何か飲みますか?」
「牛乳を」
「はぁい、ちょっと待って下さい」

カウンター越しに、グラスに入った牛乳を手渡される。
保科はその場で牛乳を飲みながら、彼女の姿を視線で追った。

「座ってていいんですよ?」
「うん」

頷いて、しかしカウンターの側から移動しない保科に、彼女が手元を向いたまま苦笑する。

「そこにハイチェアでも置きましょうか」
「座ったら、見えない」
「見えない?……ああ、」

再び顔を上げた彼女が保科の視線の先を辿り、苦笑を深めた。

「そんなに見られると変な気分です」
「不快だろうか」
「そんなことはないですけど。ちょっと緊張します」

そう言いながらも彼女は手早く大根を切っていく。
保科はまともに料理など出来ないのであまり分からないが、きっと彼女は手際がいいのだろう。
流れるように、作業が進む。
洗って、切って、同時にコンロを見ながら、振り返ってレンジを使ったり、何かを混ぜたり。
たくさんの工程が同時にあちこちで行われており、保科には最終的に何がどうなるのか皆目見当もつかない。
ただ、己が出来ないことを出来る彼女を凄いと思うだけだ。
彼女は特に気負った様子もなく、まるで普通のことのように料理をしていた。
小鉢のようなものに鍋の中身を掬い入れ、ふう、と息を吹きかけてから味見をする。
どうやら満足出来る味だったのか、彼女の頬が緩んだ。
その顔が可愛らしくて、保科は見惚れる。

「味見してみますか?」

保科の視線の先が自分ではなく、小鉢の方だと思ったらしい。
彼女がもう一度鍋の中身をお玉で掬い入れ、小鉢を保科に差し出した。
それが目的で凝視していたわけではないが、飲んでいいと言うなら欲しい。
保科は、彼女の作る料理の味がとても好きだった。
彼女の手料理を食べるようになって一ヶ月半、毎回その美味しさに感動を覚える。
決して、保科が見たことも聞いたこともないような料理が出て来るわけではないし、そう高級なものでもないのだろう。
一般的な家庭料理だ。
だがその味は保科の舌にとても馴染む。
食べたことのあるような料理でも何かが一味違って、それがとても好ましかった。

「いい感じだと思うんですけど」
「うん」

差し出された小鉢の中身は吸い物で、どう表現すればいいのか分からないがとにかく胃に沁み渡るような優しい味がする。
ふた口で飲み干して、もっと欲しくなった。

「あとこれを炒めたら終わりなので、もう少し待ってて下さいね」

保科が返した小鉢を受け取った後、彼女はフライパンに油を垂らしながら言う。
保科は頷き、また彼女の作業を見守った。


夕食の後、交代で風呂に入る。
彼女の入浴中に、保科は明日の支度を済ませた。
当然、バッグの中には彼女に最初に貰った本がお守りとして入っている。
ロシアでの滞在期間は試合結果によるが、短くて半月、最長で一ヶ月だ。
保科は、クローゼットの中に吊ってある日本代表のオフィシャルスーツを眺めた。
SAMURAI BLUEの名に相応しい、ネイビーの生地にライトブルーのストライプが入ったデザインだ。
内側には、サッカー日本代表のエンブレムが刺繍されている。
明日これを着て保科は日本を離れ、二人の兄と同じチームで世界の頂点を目指すのだ。
ようやく、この機会が巡ってきた。
そして恐らく、二度目はないと思うべきだ。
サッカー選手の寿命は決して長くない。
四年後を三人全員が待てる保証はどこにもない。
最初で最後のチャンスだと胸に刻み、試合に挑もう。
保科は決意を新たに、荷造りを終えたバッグのファスナーを閉めた。

コンコンとドアがノックされ、彼女が保科の寝室に顔を出す。
今夜も一緒に寝てくれるようだと、保科は頬を緩めた。
彼女の気遣いで寝室は二つあるが、共に暮らすようになってから、保科が自宅にいる夜を別々のベッドで過ごしたことはない。
今日も、保科は彼女を抱き締めてベッドに潜り込んだ。
試合の前夜は腕枕をさせてくれないが、今夜は移動日の前夜であって試合前ではない。
保科は彼女の頭を二の腕に乗せ、彼女が苦しくない程度の力加減で抱き寄せた。
不安はない。
適度な緊張感と、程よい高揚感。
コンディションは、現時点ではほぼ完璧と言えた。
間違いなく、そこには彼女の尽力もある。
彼女と暮らしたこの一ヶ月半は保科にとって、プロとなってから初めての、誰かに私生活を支えて貰った期間でもあった。
決してそのつもりだったわけではないが、彼女は家のことを全てやってくれたのだ。
保科が手伝おうとしても、彼女は絶対にそれを許さなかった。
生活の全てを彼女に支えられ、毎日美味しい食事を用意してもらい、保科が欲しいと思う前に何もかもが与えられた。
勉学があった学生の頃でも、一人暮らしをしていた頃でもあり得ない。
彼女の献身により保科は人生で初めて、百パーセントをサッカーに費やすことが出来たのだ。
そうしてついに、万全の状態でW杯を迎えることになる。
彼女の献身に応えられるとすれば、それはただ一つ、勝利しかないと保科は確信していた。
聖蹟の部員たちが、選手権制覇という勝利で彼女の献身に報いたように。
今度は保科が、世界を制覇してメダルを彼女に持ち帰る番だ。


翌朝、いつも通りランニングを済ませて彼女の用意してくれた朝食を摂った後、保科は日本代表のオフィシャルスーツに身を包み、バッグを肩に掛けて玄関に立った。
ポケットの中には、誕生日に彼女から貰ったキーケースが入っている。
次に彼女に会うのは半月後か、一月後か。
途中にある彼女の誕生日を共に過ごせないのは心苦しいが、今回ばかりは、帰りが遅ければ遅いほどいいと思う。
負けて早々に帰国するなんて真似は出来ない。
最後の最後までロシアに残り、そして金メダルを手土産にまたここに帰って来るのだ。

「気を付けて行って来て下さいね」
「うん」
「テレビの前で、ずっと見てますから」
「うん」

見送りに来てくれた彼女を見つめると、愛おしさが募った。

「抱き締めてもいいか」

勿論と笑った彼女が、自ら保科に身体を寄せて胸板に頬を押し付ける。
保科はその背をぎゅうと抱き締めた。
その形を、その温もりを焼き付けるように抱いてから、そっと腕から力を抜く。
すると彼女は保科の肩に両手を添え、ひょいと背伸びをした。
一瞬で近付く顔と顔。
保科が驚く間もなく、頬に何か柔らかいものが触れた。
彼女が背伸びをやめ、距離感が元に戻る。
少し照れ臭そうに笑った彼女の口元を見てようやく、先程頬に触れたのが彼女の唇だったのだと気付いた。
刹那、全身の血が沸騰したかのように熱くなる。
硬直した保科を見つめ、彼女は微笑んだ。

「勝利のおまじないです。行ってらっしゃい、拓己さん」
「ーー い、ってきます」

保科は呆然とそう返し、夢見心地のままドアを開ける。
外に出て、やっと状況を正しく理解した保科は、背後で閉まったドアに背中を預けて呻いた。

なんだそれは、反則だろう。

ばくばくと跳ねる心臓の音を聞きながら、保科は先程彼女に口付けられた頬にゆっくりと手を添えた。




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