[58]真相
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キッチンから聞こえる、包丁がまな板を叩く音。
漂ってくる出汁の匂い。
ささやかと言えばささやかな、だが掛け替えのない幸福の気配は、保科の胸を柔らかく満たしていく。
保科はしばらくソファに座ったまま、料理を進める彼女をじっと見ていた。
カウンター越しにその手元までは分からないが、手際の良さそうな音が聞こえる。
恐らく彼女はこうして毎日自炊しているのだろう。
正直、手元に視線を落として作業をする彼女の姿は、飽きることなく何時間でも見ていられると思った。
だが、保科の視線があまりにあからさまだったのか、途中で顔を上げた彼女がむくれた様子を見せたので、確かにひたすら凝視されるのも気分が良くないかと、保科はそっと視線を逸らす。
彼女は怒った顔も可愛らしかったが、保科は決して、彼女の機嫌を損ねたいわけではないのだ。
保科は彼女を見つめる代わりに、部屋の中に視線を向けた。
と言っても室内は綺麗に整理されており、何か目立つものがあるわけではない。
保科は立ち上がり、彼女が見ても良いと言ってくれたテレビ横のラックの前に足を運んだ。
棚は三段で、上から書籍、CD、DVDと分けられている。
彼女の言っていた通り、ここに収まりきらない分は別の場所に収納しているのだろう。
保科は上から順に、彼女がどのようなものを好むのか見ていくことにした。
こういった娯楽品は、その人の趣味嗜好を如実に表現する。
書籍の棚の一番端にまず国語辞典があったので、保科は彼女らしいと思った。
そこから先は、ハードカバーの小説が並ぶ。
保科でも知っている有名な作家のものもあれば、洋書も置いてあった。
彼女は英語が堪能らしい。
そして反対側の端には意外なことに、サッカーの月刊誌があったのだ。
サッカーを好きな人間ならば誰もが知っている、有名な雑誌だ。
当然、保科も読んだことがある。
定期的に刊行されるサッカーの雑誌はいくつかあるが、Jリーグから海外組の日本代表まで、日本人のサッカー選手とその試合スケジュールについて最も正確に把握するならば、間違いなくこれが一番適しているだろう。
選手のインタビューやコラムもある。
保科自身、この雑誌の取材を受けたことは何度もあった。
いつのものだろうかと引っ張り出して見てみればそれは今月号で、どうやら彼女が毎月購読しているらしいと知る。
保科は思わず口元を綻ばせた。
二段目に前後二列で並ぶCDも、これまたジャンルは様々だった。
邦楽、洋楽、クラシック、映画のサウンドトラックもある。
本当に、彼女の特に好きなものばかりを詰め込んだ棚なのだと理解した。
そして三段目。
保科はその場に正座し、DVDのタイトルを視線でなぞった。
こちらも、洋画邦画を問わず様々だ。
日本人ならば誰もが知っているような有名な大作もあれば、初めて目にするタイトルもあった。
いつか彼女と一緒に観てみたいと、そんなことを考える。
右端から左端まで、全てのタイトルを確認し終えた保科は、ふとその内の一枚を引き抜いた。
先程のCDの例から考えても、この奥行きならば後ろにもう一列あるのではないかという保科の予想は正しい。
しかし、奥に仕舞われているものは意外な形状だった。
作品のDVDとして販売されているパッケージではない。
透明のケースに入った録画用ディスクだ。
保科はその内容が気になり、手前のパッケージを何枚か抜いて、奥に手を差し入れると適当に一枚取り出した。
何の変哲もない、家電量販店で纏め売りされているDVD。
しかしそのケースの内側に貼られた付箋のメモに、保科は目を瞠った。

"8/20 五輪 対ブラジル戦"

たったそれだけの、手書きのメモ。
だがそれは、保科を驚かせるには充分だった。
メモが何を意味しているかは明白だ。
つまりこのDVDは、保科が出場した二年前の五輪準決勝、日本対ブラジルの試合の録画ということになる。
そんなものが出て来るとは露ほども思っていなかった保科は一瞬固まり、そして慌てて手前のパッケージを全てラックから引き抜いた。
まさか、と心臓が早鐘を打つ。
そしてそのまさかだったのだ。
後列にずらりと並んだDVDは、全てサッカーの試合映像だった。
最新は右端、つい先日行われた対ベルギー戦だ。
そこから、手書きのメモに書かれた日付はどんどん過去に遡っていく。
EAFF、W杯最終予選、五輪、トゥーロン国際大会、AFC U-23選手権。
保科が日本代表として出場したうち、日本でテレビ放送された全ての試合映像が残っていた。
驚くべきことに、DVDは日本代表の試合だけにとどまらない。
毎年のリーグ戦、天皇杯、その他国内戦。
それらもことごとく、保科が出場した試合だけがDVDに保存されていた。
クラブチームの試合は放送されないことも多いので抜けは多々あったが、それでも膨大な数である。
保科が大阪のクラブでACLに出場した時の、つまり四年近く前の映像まで出て来た。
そこまで遡ってみても、まだ何枚かDVDが残っている。
あとは何だろうかと手に取ると、それは聖蹟の試合だった。
三年間の全公式戦が残されている。
そして最後の一枚。
いよいよ後は何かと思ってみれば、それは聖蹟には全く関係のない、保科が高校三年の時のインターハイ準決勝戦だった。
どうして、こんなものまで。
最後の一枚を手に、目の前に高く積み上がったDVDを見つめ、保科はもうどうしていいのか分からなくなった。
彼女が保科の試合を頻繁に観てくれていたことは知っている。
リアルタイムで観られないから録画する、なんていう話も聞いたことがあった。
だがまさかこんなにたくさん観て、しかもそれをわざわざ取っておいてくれているなんて、思ってもみなかった。
中には、東院時代という七年前のものまである。
恐らく彼女がこんなものを所持しているのは、当時、聖蹟のマネージャーとして東院の試合を分析するために観たからだろう。
だがそれならば、他の高校の試合だってあるはずだ。
しかしここには並んでいない。
もう捨ててしまったのか、それとも別の場所に保管しているのか。
どちらにせよ、彼女は敢えて保科の東院時代の試合を、ここに収めていたのだ。
彼女自らが、特に気に入っているもの、と明言した、このラックに。
保科はこれを、どう解釈すればいいのだろうか。
保科の出場した試合の映像を、可能な限り全て録画してこのラックに並べてくれた彼女の想いを、どこまで自分に都合良く受け取っていいのだろう。
きっと保科の実家にだって、こんな見事なコレクションはない。
彼女はどんな想いでこのメモを書き、どんな想いでこのラックに並べてくれたのだろう。

「お待たせしました。帰国したばっかりですし、和食で、ーーーッ」

キッチンから茶碗を二つを持って出て来た彼女が、保科と、その前に並んだDVDを見て絶句した。
恐らくテレビの陰に隠れてキッチンからは見えていなかったのだろう。
保科はゆっくりと顔を上げ、彼女を見つめる。
テーブルに茶碗を置いた彼女はとても複雑そうに顔を顰めた後、諦めたように溜息を吐いて苦笑した。

「すみません、勝手に見て」
「私が見ていいって言ったんです。保科さんが謝ることじゃありません、けど……迂闊だったなあ」

このDVDの存在を失念していたのか、それとも保科が気付かないと思ったのか。

「どうしてこんなに過去の試合まで?」

最近の試合の映像があるのは、まだ理解出来た。
保科への好意を自覚してくれた後だ。
好きな人の試合の映像を残しておきたいと、そんな健気なことを考えてくれたのかもしれない。
だが東院戦やらACLやら、この辺りは間違いなく、彼女は保科に対して何の好意も抱いていなかった時期だろう。

「東院戦に関しては、言い訳をさせて下さい。マネージャーだった頃に集めた試合映像を整理したのは、去年、この家に引っ越す時だったんです。その時はもう自覚があったので、保科さんが出ている東院の試合は意図的に残しました」

ならばこの、四年前のACLは。

「………あんな告白をされて、気にならない人がいると思いますか」

彼女がふいと背中を向けた。
ワンピースの裾がふわりと舞う。

「あの時、言ったじゃないですか。嬉しかった、元気が出たって」

保科に背を向けたまま、彼女が少しぶっきら棒に続けた。

「好きだって言って貰えたことも、私の三年間を認めて貰えたことも。嘘みたいだって思いましたけど、でもあんな誠実な目で見られて、意識しない方がおかしいです」

それを保科に告げることは、恐らく不本意なのだろう。
彼女は俯き、それでも保科に言葉をくれる。

「さっき、いつから好きなのかは内緒だって言いましたけど、それは本当に自分でも分からないからそう言ったんですけど。でも今にして思えば、多分告白された時からずっと、気になってたんです。そうじゃなきゃ、あんな頻繁にメールなんて、」

彼女の言葉は、そこで途切れた。
立ち上がった保科が、彼女を背後から抱き締めたからだ。
肩を揺らした彼女の身体を、後ろから抱き込んで腕の中に閉じ込める。

「すみません、」

この人は卑怯だと、保科は思った。
以前から彼女は保科を喜ばせる天才だったが、今日は何度その臨界点を超えさせるのだろうか。
平静を装うのも、そろそろ無理があった。



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