[59]料理
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「……とりあえず、食べませんか」

保科が満足するまで、正確にはどれほど経っても満足することはないのだが、少なくとも垂れ流しになった彼女への愛おしさが落ち着くまで彼女を抱き締めてからようやく腕から力を抜くと、その中から逃げ出した彼女がダイニングテーブルに視線を向けた。
白米の盛られた茶碗が二つ並んでいる。
それを見て、保科の胃が素直に空腹を訴えた。

「はい」
「飲み物はお茶ですか?牛乳もありますけど」
「牛乳を頂けますか」

促されて保科が椅子に腰を下ろすと、彼女がカウンターに乗せた皿を、手際良くテーブルに並べていく。
それをじっと見ていた保科は、ふと、視界の端に捉えたものに気を引かれて視線を向けた。
レースカーテンの引かれた出窓に、サボテンが置かれている。
そういえば、彼女はこういった形状の植物が好きだったはずだ。
保科も以前、彼女への見舞いの品としてサボテンを渡したことがある。
もう、七年も前の話だった。
これよりも少し小さかったが、丁度こんな風に丸くて、棘のないサボテン。
あの時、それを受け取った彼女は笑って、

「あ、気付きました?それ」
「ーーー え?」
「懐かしくないですか?少し大きくなったんですよ」

ありがとうございます。大切にします。と。

「……まさか、あの時俺が渡したものですか?」
「え?そうですよ、忘れちゃいましたか?」

保科は、主菜の盛られた皿を持って立つ彼女を見上げ、次いで出窓に置かれたサボテンをまじまじと見つめ、そして口元を手で覆い俯いた。

「保科さん?」

反則だ、と思った。
これがサッカーの試合なら、一発レッドだ。
そのくらいの破壊力だった。
だって、誰が想像するだろうか。
七年も前に、まだ何の関係性もなかった男から突然渡された見舞いの品を、まさか彼女が今でも大切に育ててくれているなんて。
そうと気付かなかった理由の一つとして、このサボテンの鉢は、当時保科が買った時のものではない。
恐らく株が大きくなって鉢とのバランスが悪くなったとか、そのような理由で、彼女が今の鉢に植え替えたのだろう。
つまりそんな手間をかけてまで、彼女はこのサボテンを大事にしてくれていたのだ。
保科が社交辞令として受け取ったあの時の言葉は、彼女の本心だった。

「本当に、大切にしてくれていたんですね」
「そりゃあ勿論。びっくりしましたけど、嬉しかったですから」

保科の呻くような声に、彼女は当たり前とばかりの返事をくれる。
今日は幸せなことばかりが多すぎて、もう保科の許容範囲はいっぱいいっぱいだった。
この先一生分の幸福を今日に詰め込んだと言われても納得する。
胸がいっぱいで食べられないなんて、ドラマの中でそれこそ彼女のような可愛らしい女性が言う台詞だと思っていたが、まさにそんな心境だった。
しかし現金なもので、彼女が最後にテーブルに並べた皿を見て、空腹感がその存在を主張する。

「お口に合うか分かりませんけど、」
「ありがとうございます。頂きます」

保科は両手を揃えて彼女に感謝し、箸を手に取った。
白米と、野菜のたっぷり入った味噌汁、蓮根と人参の金平に、キャベツの添えられた豚の生姜焼き。
久しぶりの和食は、素直にありがたかった。
彩りも含め、バランスも素晴らしい。
まず味噌汁を啜り、その優しい味にほっと息が漏れた。
野菜の甘みが滲んでいてとても美味しい。
金平の辛さも保科の口に合い、豚肉は脂身が殆どなくヘルシーなのに驚くほど柔らかくて、摩り下ろしの玉葱がタレを上手く絡ませていて絶妙の塩梅だった。
文句なしに、たとえ彼女が作ってくれたという事実を抜きにしても、保科の好む味付けだ。

「美味しいです」

しばらく黙々と夢中で食べ進めてしまったことに気付いた保科がそう言って顔を上げると、彼女が柔らかく微笑んだ。
よかったですと言ってから、彼女がようやく自分の箸を手に取る。
ああ、幸せだと、保科は思った。
彼女が恋人として、こんな風に美味しい食事を作ってくれて、それを二人で食べられる日が来るなんて、想像したこともなかった。

「少し量は抑えてるので、もし足りなかったら言って下さい」
「ありがとうございます」

正直、いくらでも食べられそうである。
元々、体型を維持するためそこそこ多めに食べる方だ。
彼女が作ってくれたというスパイスのかかった美味しい料理を前にして、少食になるはずもない。
結局、一通りお代わりをしてそれらも全て平らげた。
何がカロリーコントロールだと、自分で自分に呆れるが、仕方なかったと思いたい。
それくらい美味しくて、そして嬉しかったのだ。

「……足りました?」
「はい、ご馳走様でした」

物凄い勢いで食べ尽くした保科を、彼女が意外そうな目で見ている。
子どものように夢中で食べてしまったことが、急に気恥ずかしくなった。

食後はコーヒーではなく緑茶で、帰国したばかりの保科にはそれがまたありがたい。
ソファに並んで座る、その距離感にどぎまぎした。
二人の間の距離は、指を伸ばした手一つ分。
触れたいような、触れたらおかしくなってしまいそうな、複雑な葛藤だった。
なるほど、恋人になったからと言って悩みがなくなるわけではないと、保科は思う。
好きだと言えば同じように返して貰える想像をしたことはあれど、保科はこれまで、その先について考えたことが殆どなかったのだ。
いくら経験がないとは言え、保科とて、恋人である男女とそうでない男女の違いは何となく分かっているつもりだ。
一般的に、恋人同士であれば許されることも知っている。
しかし具体的に何をどうすることが適切かなんて知識はないし、恋人という関係の進め方は曖昧だ。
何から始めて、どのような手順で、どういう手法を取れば最善なのか。
恐らく正解という正解はなく、経験を基に模索していくのだろうが、いかんせん保科にはその経験がなかった。
よって完全な手探り状態であり、それが彼女を不快にさせやしないかと気が気でない。
だが同時に、何を差し置いても彼女の傍にいたかった。
六年だ。
人生の四分の一を、彼女のことを想って過ごしてきた。
週に一度のメールで満足する振りをして、彼女に恋焦がれ、会えない日々を憂い、その姿を切望した六年。
積もりに積もった飢餓感は、そう容易く満たされてはくれなかった。
もっと声を聞きたい。
その笑顔を見ていたい。
触れてみたい。
欲求は尽きないのだということを、保科は実感する。
きっと、ゴールなどないのだろう。
想い合うことが終着点なのかと思っていたが、そんなことはない。
むしろこうして距離が近付く度、さらにもっとと想いが募る。
まるで幼子のように、もう一度、もっと、と繰り返しその先を求めていく。
希求の底は見えそうになかった。



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