[57]夢見
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なんて現実味のない状況かと、保科は思う。
保科は今、彼女の車の助手席に収まり、彼女の運転で、彼女の自宅に向かっていた。
どこをどう切り取っても、一時間前の自分には想像出来なかった展開だ。
保科はそっと、ハンドルを握る彼女の横顔を盗み見た。
当然だが、彼女が運転する姿を目にするのは初めてだった。
そもそも、免許を持っていることすら知らなかったのだ。
この車も彼女のものだというのだから、保科はまだ、彼女について知らないことばかりである。
でも、焦る必要はない。
この先少しずつ、今までよりもずっと多くのことを知ることが出来るのだから。

「この感じだと、あと三十分くらいで着くと思います」

視線を前に向けたまま、彼女が言う。
彼女が運転慣れしていることは、もう分かっていた。
恐らく、日常的に車で移動することが多いのだろう。

「それにしても、やっぱり脚長いですね」
「はい?」
「助手席、両親とか友だちとかを乗せたことはあるんですけど、シートを下げたのは保科さんが初めてです」
「……すみません、つい」

乗った時、思わずスライドレバーで位置を調整してしまったことを思い出した。

「え?ああ、違います。それが駄目とかじゃなくて、むしろそんなのは好きにして下さい。ただ単に、本当に脚が長いんだなあっていう感想です」

慌てたように説明を付け足した彼女の横顔が、ふっと苦笑に変わる。

「……やっぱり格好良いなあって話です。浮かれてるんです、あまり追及しないで下さい」

そう言って、彼女は拗ねたように小さな唇を尖らせた。
なんだろうか、この可愛らしい生き物は。
保科は、いっそ愕然とする思いで彼女の横顔を凝視した。

「……聞いてもいいですか」
「もう、追及しないで下さいって言ってるのに。……何ですか?」
「先程、最近ではなくもっと前から好きだったと」
「……言いましたけど」
「いつから、と、聞いても?」

途端に彼女は照れ臭そうに横目で保科を睨んだが、これが気にならない男はいないだろうと保科は思う。

「……この想いを伝えようと決めたのは、前に会った時でした」
「五輪の前ですね」

前回彼女に会ったのは、二年前、トゥーロン国際大会と五輪の間だった。

「そんなに前から、」
「憶えてますか?別れ際」
「……俺が、あなたを抱き締めたことですか」
「はい。あの時、ああもう絶対に忘れられないなって、思いました」

憶えていないはずがない。
あの記憶が、あの瞬間の満たされた想いが、その後どれほど保科を支えてくれただろうか。

「自分の気持ちを認めて、今度会う時に必ず好きだって言おうと思いました」

この二年間、彼女はずっとその想いを抱えたままでいてくれた。
あちこち飛び回ってサッカー漬けの日々を送る保科を、そんな素振りを見せることなく待っていてくれた。

「まあ、それは覚悟が決まったタイミングなので、好きになったのはもっと前ってことになるんですけどね」
「………え?」

ああそうかと、彼女の発言を振り返る。
伝えようと決めた、覚悟が決まった。
ならば、その気持ちを自覚したタイミングは。

「……いつか話すので、今は内緒でもいいですか」

正直、気にならないと言えば嘘になった。
だが、恥ずかしそうに笑った彼女があまりに可愛かったから、保科は言葉を失くす。
その隙に、彼女はわざとらしく話題を変えた。

「それより、お腹すいてます?」
「はい、それなりに」
「何か食べてから行きますか?おうちごはんで良ければ、帰ってから何か作りますけど」

基本的に彼女は物書きらしく、整った言葉を使う。
堅苦しいわけではない、耳馴染みのある話し言葉だが、綺麗な言葉遣いだといつも思っていた。
だからこそ、そんな彼女の口から出たおうちごはんという響きの幼さは、衝撃的だ。
可愛らしさとは時に凶悪だと、保科は思った。
その凶器にうっかり心臓を突き刺された保科は、大事な部分を危うく聞き流しかけ、内心慌てながら問い返す。

「……あなたが、作ってくれるんですか?」
「え?ああ、はい、作りますけど。もしかして何か心配してます?そりゃ凄く美味しいってほどではないと思いますけど、普通に食べる分には問題ないクオリティのはずですよ」

違う。
彼女の答え方が的外れすぎて、保科は思わず微笑んだ。

「いえ、そういう心配はしていません。あなたの手料理を頂けるとは思っていなかったので、嬉しいということです」
「……急にハードルが上がりましたね」

彼女はやんわりと苦笑し、困ったな、と独り言ちる。
一方の保科は、果たしてこんな展開があっていいものかと内心大層狼狽えていた。
そもそも、保科を自宅に招くという選択肢を提示してくれたのは、彼女だったのだ。

先刻、空港で想いを伝え合い、晴れて両想いになったところで、この後どうするかという話になった。
先に保科が自らの状況を簡単に説明し、その上でまだ彼女と一緒にいたい旨を伝えると、彼女が何の躊躇いもなさそうな口調で言ったのだ。
じゃあうちに来ますか、と。
予想外すぎる提案に保科は唖然としたが、首を横に振るという選択肢は勿論なかった。
そうして空港を出て、駐車場に駐めてあった彼女の車に乗り込み、一路東京へ。
今がその車中というわけである。

彼女の予測通り、それからおよそ三十分後、彼女はマンションの地下駐車場に車を駐めた。
専用の鍵でエレベーターのロックを解除し、駐車場からマンションに上がる。
セキュリティがしっかりした住居であることに、保科は安堵した。
女性の一人暮らしは何かと心配だ。

「どうぞ」

玄関の鍵を開けた彼女が、ドアを開けて保科を中に促した。

「お邪魔します」

保科は初めて、彼女の暮らす空間に足を踏み入れる。
玄関に入った途端、彼女の柔らかな匂いが鼻先を掠めた。
これが彼女の家の匂いかと、急に脈が速くなる。
保科は平静を装いながら、スニーカーを脱いで辺りを見回した。
そこで、懐かしい顔触れの写真に目を留める。
シューズラックの上に、写真立てがあった。
すぐにそれが、彼女が高校二年生の時の写真だと分かる。
聖蹟の選手たちが皆首から金メダルを下げているその写真は、選手権で全国優勝を果たした時のものだろう。
中央で、当時のキャプテンである大柴が優勝杯を掲げている。
優勝旗を握り締めた監督の隣に、ちゃんと彼女の姿もあって、保科は嬉しくなった。

「懐かしいですか?」
「はい」

ブーツを脱いだところで保科の視線に気付いた彼女が、柔らかく笑う。
彼らと過ごしたあの日々を懐かしんでいるのだろう。
その笑みを見ても、これまでのような嫉妬心は湧かなかった。
廊下を通って、リビングに案内される。
室内はブラウンを基調とした家具で統一されており、落ち着いた暖かな雰囲気だった。
大きめのソファにローテーブル、テレビとラック。
リビングはそのままダイニングと繋がっており、対面式のカウンターキッチンが見える。

「何か苦手な食べ物ってありますか?」
「いえ、何も」
「気を付けていることは?」
「ーー というと?」

別の部屋でコートを脱いで来た彼女が、保科の脱いだジャケットをハンガーに掛けながら聞いた。

「あれです、スポーツ栄養学的な観点の話です。カロリーがどうとか、今増量中だとか減量中だとか、そういうことです」

壁掛けのハンガーフックに保科のジャケットを掛けながら何でもない調子で問われ、保科は思わずその後ろ姿をまじまじと見つめる。
まさかそんなことを聞かれるとは、思ってもみなかったのだ。

「……確かに、普段はそういったことが考慮された食事を摂っていますが、あなたがそこまで気にする必要はありませんよ。そんなことを考えて料理をするのは大変でしょう」

保科本人でさえ、自炊をして食事のバランスやカロリーを調整しているわけではない。
そういったことは、チームの専属栄養士に任せている。

「それは勿論、プロには敵いませんけど。でも一応、基礎的なスポーツ栄養学は学んでいるので、ある程度の調整は出来ますよ」
「……はい?」
「………ああ、余計なこと言ったかなあ」

至って普通だった彼女の声音に、後悔の色が乗った。
その時点でようやく、保科は理解する。

「……まさか、あなたは、」
「趣味です。興味があっただけです。お願いだからそれ以上突っ込まないで下さい」

早口にそう言って、彼女はキッチンに逃げ込んだ。
しかし先述の通り、対面式のカウンターキッチンなのだ。
保科の視線から逃れることは出来ていない。
本当に、何がどうなって、こんな展開を迎えているのだろう。
保科は今すぐ顔を覆ってソファに崩れ落ちたくなった。
彼女の頬も少し赤くなっているが、間違いなく自分の方が顔を赤くしているだろうと分かってしまう。

「……体重は、今は特に増減の必要はありません。基本的にはバランスよく、カルシウムは多めに、という内容で管理しています。今日はもう身体を動かさないので、カロリーは控えめだと助かります」

ここで尚も遠慮するのは違うと思い、保科は正直なリクエストを口にした。

「分かりました」

小さな声で応えた彼女が、やがて苦笑したまま顔を上げる。

「適当に寛いでいて下さい。本棚は別の部屋にもあるんですけど、そこのラックには特に気に入っている本とかDVDとかが置いてあるので、よかったらどうぞ」

そう言って、彼女は冷蔵庫を開けた。
彼女が背を向けた瞬間を見計らって、保科はソファに腰を落とし口元を手で覆う。
このままでは、どうにかなってしまいそうだと思った。



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