[44]作家
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二月五日。

保科です。
今日は大阪で雪が降りました。全国的に寒いようです。あなたは風邪など引いていませんか。
U-23代表は、三月下旬に海外遠征を予定しています。それまでは各々、チームで練習することになります。俺は来シーズンもこのまま今のクラブとの契約を続けますが、いくつか、他のクラブから移籍の話も貰いました。契約金等の事情を一旦置いておくとしても、自分のしたいサッカーはどのようなものなのか、どのようなチームでプレーしたいのか、考えるべき時のようです。


一月の選手権を終え、保科は日本に帰国した。
今は大阪のクラブハウスに戻り、さらなる技術向上と体力作りに励んでいる。
U-23日本代表は、三月に海外遠征、四月に強化合宿、五月に国際親善試合を経て、その後フランスで開催されるトゥーロン国際試合に臨む予定だ。
そして六月に再び親善試合を行い、七月の合宿で最終調整をして、八月にいよいよ五輪に挑む。
日本の五輪出場は既に確定しているが、その代表メンバーが選手権と同様なわけではない。
五輪までの全ての試合、全ての合宿は、日本代表として五輪のピッチに立つ選手を決めるための選考を兼ねているのだ。
五輪における登録可能選手の数は、たったの十八人。
その数少ない枠をめぐって、選手たちは自らのアピールに励むこととなる。


こんにちは。
毎日寒いですね。昨日うっかりソファで寝落ちてしまい、危うく風邪を引くところでしたが、丈夫なのが取り柄なので心配しないで下さい。
私はプロの移籍や契約について、詳しいことは何も分からないのですが。そうやって、色々なクラブから声が掛かる保科さんは凄い選手なんだなあ、というのが素人目線の率直な思いです。納得のいく答えが出せるといいですね。
話は変わるのですが。実は、保科さんに受け取って貰いたい物があるんです。もし迷惑でなければ、いつでもいいので住所を教えて貰えますか?


彼女の気遣いに頬を緩め、感謝し、そして最後の問いに保科は内心首を捻った。
受け取って貰いたい物が何なのか、皆目見当も付かなかったからだ。
彼女にそんなことを言われたのは初めてである。
しかし当然、答えは諾の一択だ。
保科は次のメールに、自宅の住所を添えた。
すると翌週、保科の自宅に小包が届く。
不思議に思いながらも開けてみると、それはハードカバーの書籍だった。
タイトルにも著者にも、聞き覚えはない。
彼女が添えてくれた手紙には端的に、時間があれば読んでほしい旨が書かれていた。
それ以外の説明は何もない。
もしかして、いつだったか保科が言った、お薦めの本を教えてほしい、という依頼への答えだろうか。
何にせよ、彼女が読んでほしいと言うのであれば、保科に否やはなかった。
むしろ、わざわざ送ってくれるほどの本だ、当然興味がある。
その日が偶然オフだった保科は自主トレーニングを済ませてから、自宅のソファに腰掛け彼女から送られてきた本を読んだ。

そして保科は確信することになる。
それは、とある架空の高校サッカー部の物語だった。
保科の記憶を呼び起こすのは、誰がモデルとなっているのか分かりそうなキャラクターたち。
普段はすっ惚けているが、圧倒的な力でチームを牽引するキャプテン。
冷静に、そんなキャプテンとチームを支える副キャプテン。
不器用だが情に厚く頼り甲斐のあるGKに、仲が悪いくせにピッチでは息の合うCBとFW。
そして、素人だが誰よりもよく走る直向きな一年生。
このチームの、この高校のモデルは間違いなく聖蹟だ。

それならば、この小説を書いたのは。


『もしもし』
「保科です。夜分遅くにすみません」
『いえ、それは大丈夫ですけど、』

突然掛かってきた電話に戸惑う様子を見せる彼女に、保科は告げた。

「頂いた本を読みました」
『えっ、もうですか?』
「とても引き込まれる内容で、一気に読んでしまいました」
『そう、ですか』

鼓膜を揺らす彼女の声が、どこか硬い。
もしかしたら緊張しているのかもしれないと、保科は思った。

「これは、あなたの書いた本ですか?」

文字から伝わってくる選手たちのリアルな動き。
ボールを蹴る音や息遣いが聞こえてくるような、圧倒的な臨場感。
小出しにされるユーモラスな言い回しと、胸が熱くなる展開。
保科は時間を忘れてのめり込み、そうしようと決めていたわけでもないのに最後まで読みきってしまった。
専門用語を極力用いない表現は、恐らくサッカーをあまり知らない人にとっても分かりやすいだろう。
だがプロの目から見れば、サッカーをよく知る者が書いているということは明らかな文章だ。

『実は、そうなんです』

気恥ずかしそうに、でもどこか誇らしげに、彼女は言った。

『すみません、何の説明もなしに。最初から自分の書いた作品だって言うのが、ちょっと自信なくて』
「やはり、あなたが、」

保科はスマートフォンを持っていない方の手で、膝の上に置いた本の表紙を撫でる。
ハードカバーの感触が指に伝わってきた。

『去年の春に書いて応募したものなんです。それが、新人賞で大賞を貰って、出版されることになりました。っていうか、もう出版されて、そういう形になっているんですけど、』

彼女の説明を聞いて、漠然と考えていたことが一点に集約される。
そうか、彼女は。
彼女はついに。

「作家デビューの夢を、あなたは叶えたのですね」
『そういうことに、なりますね』

そう言って、彼女は笑った。
今この瞬間、目の前に彼女がいないことがこんなにも口惜しい。
きっと少し照れ臭そうな、でも柔らかな笑顔を浮かべているのだろうと思うと、見られないことが悔しかった。

「おめでとうございます」
『ありがとうございます』

伝えたい想いが大きすぎて、言葉にならない。
保科はもどかしさに歯噛みした。
彼女が幼い頃から夢見ていたことだ。
何度も挑戦し、挫折を味わい、諦め、それでももう一度とその夢を必死になって追った。
何年越しの夢だろうか。
彼女はついに自分の力でそれを叶えてみせたのだ。

「本当に、おめでとうございます。あなたのように上手く伝えられなくて、すみません。とても素晴らしい作品だと、俺は思います」

もっと上手な言い方はないのかと思っても、言葉が見つからない。
だが彼女に、保科の想いのいくらかは伝わったようだった。

『大丈夫です、ちゃんと嬉しいです。何よりも、保科さんに読んで貰えたことが、私にとってはご褒美みたいなものなんです』
「……それは、どういう、」
『お気付きの通り、本名じゃなくてペンネームで出版しました。その本を書いたのがミョウジナマエだと知っているのは出版社の人と、私の家族と、そして保科さんだけなんです』

え、と、保科の唇から声が漏れる。

『基本的に、誰にも明かすつもりはなかったんです。新人賞一つで自意識過剰なのは分かってますけど、万が一にも自分自身が有名になってしまうのは、正直嫌で。だからもしいつかデビュー出来たとしてもペンネームを使おうって、前から決めていました』

事実、その言葉通りなのだろう。
彼女は淀みなく説明し終えてから、最後に「でも」と付け足した。

『保科さんには、知ってほしかった』
「……俺に、ですか」
『メールでずっと話を聞いてもらってましたし、』

確かに毎週交わすメールの中で、彼女は保科に執筆の話をしてくれていた。
どんな話を書いた、どんな賞に応募した、でも辛辣な駄目出しをされた、講評すら貰えなかった、等々。
保科がサッカーの話をするように、彼女も執筆の話をした。

『そもそも、私が作家志望だなんて知ってるのは、保科さんだけだったんですよ』
「そう、だったんですか」

保科が彼女の夢を知ったのは二年前、彼女に想いを伝えた時だ。
春からの進路を訊ねた保科に、彼女は夢を語ってくれた。
さらりと話されたあの時は、まさか誰にも言っていない夢だなんて知らなかった。

『保科さんは私の夢を馬鹿にせず、ずっと応援してくれていたから。だからいつかもし夢が叶ったら、その時は保科さんにだけはちゃんと説明して私の書いたものを読んで貰おうって、そう決めてたんです』

順番が逆になってしまいましたけど、と彼女が笑う。
その含羞を滲ませた笑い声を、保科は殆ど泣きそうな心境で聞いていた。
だって、そうだろう。
彼女は保科に、特別をくれたのだ。
きっかけは気紛れだったかもしれない。
唐突に心境を暴露した保科につられ、つい、夢を話したのかもしれない。
でもその後、続きを話してくれたのは彼女自身の意思だ。
彼女は、彼女の夢を保科と共有してくれた。
そしてそれが叶った今、保科に形を見せてくれた。
かつてのチームメイトでもなく、きっと多くいる友人たちでもなく、保科を、特別に扱ってくれた。
それがどれほど嬉しいことか、彼女は知っているのだろうか。

『いつも応援してくれて、ありがとうございました』
「いえ、俺は何も」

応援、と彼女は言った。
確かにずっと、彼女の夢を応援していた。
だが実際のところ、口下手な保科はそれを上手く伝えられず、ありきたりな言葉でしか彼女を励ませなかったように思う。

『前に、伝えませんでしたっけ。保科さんのプレーを見ていると、立ち止まる気にならないって』
「はい、確かにそう言われました」

いつかの試合後に、そういった旨のメールを貰った。

『書き続けることは誰にも強制されないし、誰にも見られない。いつだって、自分がもういいと思った瞬間にやめられたんです。いつでも諦めて逃げ出せた。でも、どんな試合でも九十分、最後まで決して諦めることなく走り続ける保科さんを見ていると、この人に、もうやめましたなんて絶対言えないなって、』

なるほど確かに、執筆は孤独な作業だろう。
デビューすれば、担当の編集者みたいなものが付くのかもしれないが、素人であるうちは完全に個人の問題だ。
サッカーのようにチームメイトはいない。
その姿を大勢の観客に見られることもない。
プレッシャーの代わりにあるのは、ひたすらに己との戦いだ。
やめたところで誰に見咎められるわけでもないその孤独な作業の中で、彼女は、保科の姿を支えにしてくれたのか。
上手く言葉にすることは出来なくても、保科のサッカーは、彼女の励みになっていたのか。

『まだ、これが最初の一歩です。これからも、ずっと書き続けます。だからまた出版出来る作品が書けたら、保科さんに読んでほしいです』

彼女の作品は、多くの人の目に触れるだろう。
大勢がこの本を手に取り、読んで、感動する。
でも、これを書いたのがミョウジナマエだと知っているのは、彼女の家族と保科だけだ。
一つの高校サッカー部の全国優勝に多大なる献身を捧げたマネージャーという過去を持つ、努力家で優しい女性がその彼らを想って書いたのだと知っているのは、保科だけなのだ。
そしてこの先もきっと、保科だけが、このペンネームの向こうに彼女の名を見ることが出来る。

「はい、必ず」

保科は彼女の本をそっと持ち上げ、労わるように包み込んだ。



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