[37]鼓膜を揺らす最初の言葉膝をついたまま、恐る恐る振り返った先。
一頭の美しい馬がいた。
そしてその背に、乗っていたのは。
「…………ち、かげ、さま……?」
風間千景そのひとが、軽々と馬の背から飛び降りた。
一週間前に見送った日に見た、紫を基調とした洋装。
相変わらず美しい金糸に、紅の瞳。
どこからどう見ても、それは間違いなく千景様で。
「………ど、して……」
疑問以外の何を抱けというのだろうか。
ここにいるはずのないひとが、確かにいて。
大股に近付いてきた千景様が、私の前に立った。
「屋敷から早馬があった」
未だ座り込んだままの私を、千景様が見下ろす。
「聞けば、お前がどこにもおらず、行李から気に入りの簪が失くなっているという」
その顔と声は、間違いなく怒っていた。
だがそれは激怒ではなく、かつて見たことのない、静かな憤りだ。
「妻に逃げられた頭領など、前代未聞だろうな」
千景様が、薄っすらと恐ろしいほど美しい笑みを浮かべた。
「さて、この場で身体に無理矢理聞かれたくないのであれば、素直に理由を吐いてもらうぞ」
それは勿論、そうなるだろう。
千景様は何一つおかしなことを言っていない。
まさかこんなに早く千景様が動くとは思っていなかったのだ。
屋敷に戻れば事情を察しているであろう野分先生や、長老たちがいる。
千景様がその話を聞いて事態を飲み込む頃には、私は結界の外。
そういう算段だったのに。
「………私では、駄目だったんです、」
ここまで来られてはもう、誤魔化せなかった。
「私は……、わたし、は……っ、」
この状況で、何に縋ろうというのか。
それでも核心に触れることが恐ろしくて、私は簪を握り締め俯いた。
「私の身体は、……子を、産めないんです……っ」
そしてようやく、長い間ずっと秘していた一言が押し出される。
「貴方の世継ぎを……っ、産めないんです……!」
繰り返した言葉にまた、胸を抉られた。
今更もう、傷付くこともないだろうに。
いっそこの簪で胸を刺したら少しは楽になるだろうか、なんて、馬鹿な考えが脳裏を過ぎったその時だ。
「だから何だ」
頭上から、聞き間違いとしか思えない問いが降ってきた。
私は思わず、顔を上げる。
すると千景様が、その瞬間を待っていたかのように私の腕を掴んだ。
ぐいと引き上げられ、私はふらつきながらも立ち上がる。
「それがどうしたと聞いている、ナマエ」
近くなった距離で、千景様が同じ問いを繰り返した。
「ど、うしたって……、だから、産めないんですよ!貴方の子を!俺の子を産めと仰ったのは千景様じゃないですか!」
忘れるはずもない、衝撃的な求婚。
「そのために嫁に来いと、仰ったじゃないですか!」
それなのに、私は。
再び涙が込み上げ、千景様の顔が滲んでいく。
「毎晩……っ、俺の子を成せ、と……、そのための行為だと、仰ったじゃないですか……っ」
それなのに私は、産めなかったのだ。
涙が頬を伝い、私が再び俯きかけた、その瞬間。
くそ、と千景様が酷く焦燥に満ちた声で似合わぬ悪態を吐き捨てた。
「違う、ナマエ。それは口実だ」
「………はい?」
「ただ、お前を抱きたかった。子はその口実だ」
何を言われたのか分からず、ぽかんと見つめた先。
千景様は片手で前髪をぐしゃりと握り締め、忌々しげにこう言った。
「世継ぎという大義名分があれば、お前は俺を拒まない。お前の責任感を俺が利用したに過ぎん」
千景様は、まるで自嘲するように唇を歪めた。
「お前は順序を間違えている。確かに俺は子が欲しい。だがそれは、お前との子だから欲しいのだ。お前を愛しているから、お前の子が欲しい。それ以外など俺には何の価値もない」
ついぞ聞いたことのなかった愛の言葉に、私は言葉を失くして立ち尽くす。
「そもそもお前、俺が今更お前以外の女を抱けると本気で思っているのか。だとすれば料簡違いも甚だしいぞ」
愛を告白されているのか。
それとも怒られているのか。
私は憮然とした表情の千景様を見上げ、唇をはくはくと動かすことしか出来なかった。
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