[36]最愛を叫ぶ
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別に、逃げるために学んだわけではなかった。
けれど、ここに来た当初に里の地理について学んでおいてよかったと、今は思う。
風間の屋敷がある集落を抜け、さらに東と南にある集落の間を抜けた私は、ついに力尽きて地面に倒れ込んだ。
途中に何度も休憩を挟んだとはいえ、一夜で随分な距離を走ったのだ。
流石に脚が棒のようだった。
草むらの上に寝転んだ私は、土の匂いを感じながら空を見上げる。
今更気付いたが、今宵は随分と晴れているらしい。
満天の星空だ。
起き上がって自分の身体を見下ろすと、それはもう酷い有り様だった。
足袋は泥だらけで着物も乱れているし、結うことすら忘れていた髪にはなぜか葉っぱがついている。
里の者に見られないよう気を遣ってここまで来たが、これなら見られても千景様の正室だと気付かれないのではないだろうか。

ああ、もう、名実共に千景様の妻ではないのだ。

そう実感して、私は再び寝転んだ。
生憎と涙を流す力さえ残ってはいない。
酷く疲れていた。
もう少し東に走れば、やがて里の結界を抜けるだろう。
ということは、同胞に見つかる可能性がなくなると同時に、今度は人間に見つかる可能性が出て来るのだ。
夜のうちに結界の外に出ることは得策ではないと判断して、私は全身から力を抜いた。
どちらにせよ、今宵はもう一歩たりとも動けそうにない。
千景様の里で過ごす最後の夜だと、私は空を眺めた。
肌寒く澄んだ、美しい夜空。
生憎と、意識は数秒しか保たなかった。


日が昇ると同時に目覚めた私は、一瞬、自分の置かれた状況に酷く戸惑った。
泥だらけの足袋を見下ろし、何事かと首を傾げたほどだ。
やがて昨夜自分が何をしたのか思い出し、急に、笑い出したいような泣き出したいような、妙な心地になった。
思い切ったことをしたものだと、改めて感じる。
だが、振り返ってみても後悔はなかった。

これで、いい。

私はゆっくりと立ち上がり、近くに流れる川の水で口を濯いでから再び東に向けて歩き出した。
なだらかな丘を越えた先が、結界のはずだ。
途中で腹の虫が鳴り、こんな時でも空腹を感じるのかと、また不思議な気分になった。
今頃は、屋敷で梅乃が私の不在に気付いているだろうか。
しばらく屋敷中が捜索され、そしてきっと昼前には、私がどこにもいないと判断されるだろう。
追っ手は来るだろうか。
それとも長老辺りが事情を察し、なかったことにされるだろうか。
千景様がこのことを知るのは、いつになるだろう。
流石に、帰って来るまで誰も報せない、ということはないだろうから、早馬が出るのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、丘の上にどうやら大木が立っていることに気付いた。
その花弁は、もうすぐ満開を迎えようとしている。

「……桜、」

近付くにつれ、それがとんでもなく大きな木だと分かった。
樹齢何百年という、見事な一本桜である。
不意に、私は思い出す。
一年前、千景様と京から薩摩へと旅する途中で、桜の話をしたことがあった。
里に見事な桜の大木があり、それは毎年見事な花を咲かせる、と。
今年は間に合わないと言われたあの時、私は何と返しただろうか。

では、来年を楽しみにしておりますね。

そうだ、私はそう答えた。
すると千景様は、唇の端を僅かに上げて、笑ったのだ。

ああ、そうだな、と。


「ーーーっ」

不意に、目頭が熱くなった。
胸の奥から熱い塊が迫り上がり、それは涙となり嗚咽となり、私の身体から溢れ出す。

「ひっ、う、ーーーっ、ぁ、ああああああっ!!」

私は膝を折り、その場に崩れ落ちた。
涙がぼろぼろと頬を伝い、喉が引き攣れる。
意味を成さない声が、しゃくり上げて乱れた呼吸の合間に漏れた。

初めて、褥の上以外で泣けた。
子を宿すことは難しいと判断されたあの日からずっと堪えてきたものが、堰を切って溢れ出す。

「ち、かげっ、さまぁ……っ、あ、ぁぁあ、」

その名をついに口にした途端、嗚咽は一層酷くなった。
耐え切れずに腰を折り、草むらに額を押し付けて泣き喚く。
泣いても泣いても、涙が止まらなかった。

ようやく、認めることが出来る。
私は自分に嘘をついたのだ。
千景様のために、千景様の迷惑になるから、そんな理由で屋敷から逃げた。
その理由そのものが嘘だとは言わない。
でも本心は、そんな綺麗なものなんかではなかったのだ。

私は、嫌だった。
千景様が、私ではない誰かを妻とする。
その姿を見ることが、嫌だった。
あの手で、あの唇でその肌を優しく愛で、そして抱くのだ。
あの、千景様が、他の女を。
私を抱き締めてくれたあの手が、私ではない誰かの肌に触れるのだ。
私を愛してくれた手で、他の誰かを愛する。
そんな姿は、見たくなかった。

そして私は、怖かった。
千景様が、私を見限ってしまう。
まるで虫けらを見るような目で見下ろされる日が来るかもしれないと考えるだけで、怖かった。
役に立たない、今までの時間は何だったのかと責められ、感じた愛情まで否定されたら、私は死んでしまいそうで。

だから、他の女を娶る千景様を見る前に、千景様に失望される前に、逃げ出した。
私は私のために、千景様から逃げたのだ。
千景様のため、里のため、なんて大義名分を振りかざして。
私は結局、最後まで自分勝手にしか生きられなかった。

でも、もう戻れない。
約束は果たせない。
それが誰のための逃避であったにせよ、私にもう帰る場所がないことは確かなのだから。
最後に千景様と花見がしたかったと、悔いたところで手遅れだ。
もうあの手が私に触れてくれることはない。
あの唇も、あの控えめな笑みも、意地悪なようで実は優しい言葉も。
全て全て、二度と私には与えられない。
そしてやがて、誰かのものになる。
この世で一番幸せな、女のものになるのだ。

顔を上げ、懐から取り出した簪を握り締めた。
唯一手元に残った、千景様からの贈り物。
いくつもの思い出が詰まった、大切な簪。
両手に包み込んでその手ごと胸元に押し付ければ、収まりかけていたはずの涙がまた零れた。
心が千々に千切れてしまいそうだ。

「……っ、ち、かげ、さまぁ……っ」

長い長い一生で、唯一恋い慕ったひとの名。
愛おしく、大切な、掛け替えのない名。
もう二度と応えがあることはない、私だけの宝物。

「ちかげ、さま……、千景様……っ」

もう、会えない。
二度と、あの低く優しい声は返って来ない。

その、はずだったのに。


「そう何度も呼ばずとも聞こえている」


背後から聞こえた幻聴は、確かに私の鼓膜を揺らしたのだ。



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