[35]全てに別れを告げて
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その日の夕餉は、一口も飲み込めなかった。
心配する梅乃に対し、少し疲れているだけだと言って、部屋に籠る。
庭で長老たちの立ち話を聞いてから、三刻ほどが経っていた。

冷静さが失われていることは、自覚している。
だが仮にそうでなかったとしても、思考は同じ道筋を辿ったはずだった。

私は、ここにいてはいけない存在だ。

きっとこの結論は、変わらない。
途中でどの選択肢を選んでも、結局はそこに行き着いた。

私の身体が子を成せないということが、明るみに出た時。
千景様にとって私は、役に立つはずの存在から一転し、ただの厄介者に成り下がるのだ。
正室として置いておくのも、何かと都合が悪いだろう。
かといって正室を替えては、体裁が悪い。
それにもしかしたら、千景様は私に気を遣ってしまうかもしれない。
横暴に見えて、本当は優しく義理堅い方なのだ。
一度交わした約束を違えようとはしない、そういう方なのだ。
ただでさえ責任と重圧を一身に受けて立つ千景様に、これ以上の重荷を持たせることが出来ようか。
あのひとの役に立ちたいと願った私があのひとの足を引っ張るなんて、あってはいけないのだ。

私がここにいては邪魔な理由なんて、いくつでも思い付く。
けれど、私がここにいるべき理由は、どこにもないのだ。
だとすれば、最後に選べる選択肢は一つしかないだろう。


私は座布団から立ち上がり、部屋の隅にある行李を開けた。
その中から、簪を取り出す。
千景様に最初に頂いた宝物の簪だ。
私はそれを手に取って、大切に懐に忍ばせた。

それだけだった。
それだけあれば、充分だった。

後は、皆が寝静まるまで待つこと数刻。
夜半に私は自室から庭へと降り、そのまま屋敷から飛び出した。
気配を消すのが上手いと女中に言われたのは、いつのことだっただろうか。
まさかこんな所で役に立つ日が来るとは思ってもみなかったけれど。
幸いというべきか、私は誰にも気付かれることなく敷地を抜けることが出来た。
夜陰に乗じて、集落の外を目指しひた走る。
何の言い訳も出来ない、文字通りの夜逃げだった。

でも、これでいい。

私が消えれば、後から理由は何とでも捏造出来る。
分かりやすい例で言えば、病死ということにでもしてしまえばいいのだ。
そうすれば体裁は守られる。
新たな正室を迎えることに、何の障害もない。
責任を放棄して逃げ出した私に呆れ怒ってくれれば、千景様も憂慮なく新しい妻を娶れるだろう。

だから、これでいい。

私はまだ寒い春の夜を、必死で掛けた。
向かう場所は、どこにもない。
まさか、風間の里と繋がりのある姫様の屋敷になんて行けるはずもない。
でも、これが初めてではないのだ。
幼い頃、里が焼き払われた時。
あの時も私は着の身着のまま、何も持たずに一人で逃げた。
行く宛などあるはずもなく、ただただ逃げた。
山に入り、山の幸と川の水で飢えと渇きを凌いだ。
そして一人で生きていくための術を、文字通り自然から学んだ。
失敗と工夫と努力を重ねた。
火を起こせるようになり、魚を釣れるようになり、食べられるものとそうでないものとの区別がつくようになった。
やがて山奥で見つけた無人の小屋に結界を張り、雨風を凌げるようになった。
それからはその小屋で寝起きし、人間と動物に気を付けながら食糧と水を調達しては、また小屋に戻る日々。
そんな暮らしを、何年続けただろうか。
一人で生きる術を、私は知っている。
だから、行き先などなくても怖くはなかった。

そう、何も怖くはないはずなのに。

先程から、馬鹿みたいに乱れる呼吸は何のせいだろう。
夜が明ける前に屋敷から少しでも離れようと駆ける足が震えるのは、何のせいだろう。

どうしてこんなにも、心細くて胸が痛いのだろう。

その理由は、たった一つの名前で。
今その名を口にすれば、取り返しがつかないことになってしまう気がして。

私は必死で頭を空にして、ただひたすらに夜道を駆けた。



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