[34]心が死にゆく気配
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それは、千景様が天霧さんや他の臣下を伴って屋敷を出発してから、丁度一週間後のことである。
屋敷の庭にある桜の蕾がぽつりと花開いた。

ああ、ついに。

それを部屋から見つけた私は、改めて覚悟を決めながら、その健気な花をぼんやりと眺めた。
小さくも力強い、命の生き様。
私はそれをより近くで見たくなって、縁側から庭に降りた。
近付いてみれば一つだけでなく、枝のあちこちで蕾が花開いている。
千景様の言っていた通り、まさに一週間後が見頃となるのだろう。
私は幹の側に立ち、広がる枝を真下から見上げた。

その時だ。

「しっ、声が大きい!奥方様の耳に入ったらどうするつもりか」

小声ながらも鋭い叱責の声が、私の耳に飛び込んできた。
聞き覚えがあるその声の持ち主は、恐らく千景様の叔父だろう。
私が声のした方をそっと伺うと、桜の木を挟んで反対側、大広間の方の縁側に、二人の男の姿があった。
一人は予想通り、叔父の長老殿。
もう一人も同じく里の長老で、確か天霧さんの父親だ。
盗み聞きなど無礼なのは分かっていたが、聞こえてきた奥方様という響きに、私の足はその場に踏み止まってしまった。

そう、それがいけなかったのだ。

「しかし、側室とはどういうことで?」

天霧さんの父の言葉に、私は固まった。

「どうもこうもない」
「御当主は、娶るのは一人だけだと、」
「状況が変わったのじゃ。あの娘は駄目だ、それはお主とて分かっておるじゃろう」
「……確かに、もう一年も経つのにその気配すらありませんな」

何の話をしているのかなんて、今の私が一番良く分かっている。
そうか、陰ではもうこういう話をされていたのかと、私は腑に落ちてしまった。

「それを先日御当主にお伝え申したところ、もう次の手は考えてある、と」

ああ、いやだ、と。
私はきつく目を閉じた。
聞きたくないと、耳すら塞いでしまいたかった。
しかし両の手は身体の横にぶら下がったまま、ぴくりとも動いてくれない。
その間にも、私の背後で二人の会話は続いた。

「それが側室だと?」
「恐らくは。正室を替えるという手もあるが、流石にそれは体裁が悪い」

分かっていた。
当然のことだ。
世継ぎを産めぬ女に用はない。
私はお払い箱だ、分かっていた。
でも私は、自分のことばかり考えていて、その先のことにまで頭が回っていなかったのだ。

「お戻りになられたら、委細を伺うつもりじゃ」

私がいらなくなったら、代わりの誰かがいる、ということを。

「……またなんとも、憐れな」
「仕方あるまい。風間の正室とはそういうもの」

どうしてそれを失念していたのだろう。
至極当然のことだったのに。
まさか、千景様の唯一にでもなったつもりだったのか。
だとしたら、とんだお笑い種だ。
千景様にとって、風間家にとって、大事なのは私が子を成せるか否かではない。
誰かに世継ぎを産ませることだ。
誰かに必ず、千景様の子を産ませる。
そして私の代わりは、いくらでもいる。
血筋の順で私が選ばれただけであり、私が役に立たないならば、次の娘がどこかにいるのだ。
その娘を、千景様は娶る。
きっとまた、夫として妻を大切にするのだろう。

そして子が生まれる。
その子が世継ぎとなる。
そうなってしまえばもう、側室だなんて関係ない。
世継ぎを成した女こそが、千景様の妻だ。
見向きもされなくなった私は一人、それを見ていることしか出来ない。


気が付けば、縁側から二人の姿は消えていた。
私はその場に崩れ落ちそうな脚で必死に歩き、最後は殆ど這うような体勢で自室に戻った。
この一年で慣れ親しんだはずの部屋が急に見知らぬ場所に思えて、私は肩を震わせる。

季節外れの風鈴が、りん、と鳴った。



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