[31]愛への切望
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それから実に一週間もの間、私は寝込んだ。
野分先生の用意した風邪という虚言に合わせて具合の悪い振りをする必要もなかった。
年の瀬で千景様が忙しかったのは、幸いだったと言えるだろう。
合わせる顔などあるはずもなかった。
それでも千景様は忙しい公務の間を縫って、何度も私の部屋を訪ねてくれた。
私はその度に寝たふりをした。
千景様はそれに気付いていたのかどうか。
無理に私を起こそうとはせず、ただただゆっくりと私の頭を撫でては去って行った。
その度に私は、胸に迫り来る泣きたいような衝動と戦わねばならなかった。

起きることも儘ならなければ、食事も喉を通らない。
そんなある日の夕餉で、驚くべきことがあった。
梅乃が部屋に用意してくれた膳が、明らかに普段とは異なっていたのだ。
なぜか盆二枚分で用意された、たくさんの料理。
冷奴に菜っ葉のお浸し、焼き鮭、里芋の煮っ転がし、鱚の塩焼き、白菜の漬物、蜆の味噌汁、白瓜の酢の物、玉子焼き。
そして大量の甘味。
何をどう考えても、風邪を引いた者に食べさせる療養食ではない。
その並んだ料理は、私の優しい記憶を揺さぶった。

そうだ。
これは、あの時と同じだ。

まだ私が八瀬の屋敷にいた頃。
体調を崩して食欲を失くした私を心配して、千景様が料理人に、私の好きなものばかりを作らせたことがあった。
その時に並んだ料理と、これは全く一緒だ。
千景様は、私の好きな料理を憶えていてくれたのだろう。
そしてこの屋敷の料理人に、同じものを作らせたのだ。
盆の端にちょこんと乗った卵粥の椀は、訳の分からない命を出され戸惑った料理人たちの、せめてもの抵抗だろうか。

ふふ、と笑みが零れる。
同時に涙まで零れそうになって、私は唇を噛んだ。

「今日は奥方様の好きなものばかりですね」
「……ありがとう、梅乃」

梅乃に、好きな料理を伝えた記憶はない。
普段私が食事を摂る様子から、察してくれたということなのだろう。
私はこの娘に大切にされている。
そして千景様にも、大切にされている。

私は箸を手に取った。
ちゃんと食べなければならない。
可能性が全くないわけではないと、野分先生は言ったのだ。
それなのに体調を崩して、余計にその可能性を低くするなんて馬鹿げている。
私は元気でいなければならない。
年が明ければ新年の宴もある。
そこに、千景様の妻として私にも役割がある。
こんな風に一人で塞ぎ込んでいてはいけないのだ。

「いただきます」

蜆の味噌汁は、優しい味がした。


その後、夜遅くに千景様が私の部屋を訪ねてくれた。
表情に若干の疲労が滲んでいる。
やはり忙しい時期なのだろう。

「起きていたか」

身体を起こして出迎えた私を見て、千景様は幾分か安堵した様子で畳に座った。

「体調はどうだ」
「お陰様で、随分良くなりました」
「そうか」
「夕餉の膳、ご配慮頂きありがとうございます」

何の話か分からんと、千景様が外方を向く。
私は一週間ぶりに、心の底から可笑しくなって小さく噴き出した。

「良くなったというのは強がりではなさそうだな」
「だから、そうだと言っておりますのに」
「ならば、今宵からまた共寝するか」

え、と固まった私を見て、千景様がくつりと笑う。

「心配せずとも、何もせん」
「え、あ、はい……」

流されるように頷いた私を、千景様は何の躊躇いもなくひょいと抱き上げた。
横抱きにされた私が降ろして欲しいと訴える間もなく、寝所に連れて行かれる。
そっと壊れ物を扱うような所作で褥の上に寝かされ、私は妙に気恥ずかしくなり顔を逸らした。
私の横に寝転んで立てた腕を枕にした千景様が、私の顔を覗き込み、髪を梳く。
その優しい手付きに、心が解けた。

「……千景様」
「どうした」

置き行灯に照らされた紅の瞳が、穏やかに揺れる。

「……本当に、しないのですか?」

その目が見開かれるさまを、私はじっと見上げた。
言葉に詰まった千景様が、やがて呆れたように嘆息する。

「煽るな、馬鹿者」

一瞬で覆い被さってくる、大きな身体。
私は自ら両手を伸ばし、千景様の背に縋った。
千景様が眉根を寄せる。

「………愛して、下さいませ」

精一杯の誘い文句に、千景様が息を飲んだ。
はしたないことを言った自覚はある。
けれど今は何よりも、千景様の熱が欲しかった。

「……後悔するぞ」
「しません」
「途中でやめろと言っても聞かんからな」
「言いません」

千景様が、ふっと口角を持ち上げる。
優しい獣の目をして、千景様は私に口付けた。



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