[29]氷の刃
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その日は、冷たい雨が降っていた。
薩摩の冬は京のそれに比べ穏やかだが、それでも雪になりきらない雨というのは身も心も凍えさせる。
昼餉の後に書の稽古を終えた私は、冷たくなった両の手を擦り合わせながら自室に向かって長い廊下を歩いていた。
すると。

「ああ、奥方様」

廊下の向こうから、近付いて来る姿。

「長老殿」

私は立ち止まり、小さく会釈した。
里の重鎮である彼は、千景様の叔父だ。

「朝から気の滅入る雨ですな」
「ええ、随分と冷えますね」

あまり言葉を交わしたことがない相手との立ち話に、私は少しばかり緊張した。
全てを見通すかのような視線が、なんとなく苦手なのだ。
身長は殆ど変わらないのに、なぜか冷たく見下ろされているような、そんな気分にさせられる。

「大事な御身ですからな。くれぐれも、風邪にはお気を付け下され」
「はい、ありがとうございます」

一通りの儀礼的な会話が済み、私はその場を立ち去ろうとした。
しかしそこで、長老がさも今思い出したかのような口振りで、言葉を続ける。

「して、奥方様。一つご無礼をお許し頂きたい」
「どういう意味でしょう」
「不躾とは存じておりますが、お聞きしたいことがございます」
「なんでしょうか」

嫌な予感が、したのだ。

「そろそろお世継ぎが宿ってもおかしくはない頃かと愚考致しますが、如何か」

嗄れた声が、鋭利な刃物となって胸を突き刺した。
分かっていたことだ。
私に求められているのが千景様の子を産むことだということも、その報せを皆が今か今かと待ち望んでいることも。
そして、時間がかかりすぎているということも。

「……こればかりは、神の思し召しと言いますから」

私は冷え切った両手をぐっと握り締めた。

「左様ですな」

千景様は、夜半、寝所の前に見張り番を立ててはいないという。
だがたとえ声が聞こえなかったとしても、同じ屋敷にいる女中たちには夜の事情など殆ど筒抜けになってしまうものだ。
つまり皆が、私が夜毎千景様に抱かれていることを知っている。
それなのに半年経ってもまだ、子を宿す気配がないのだ。
遅いという意見が出るのは仕方のないことだろう。
期待が強い分、余計にそう思われてしまうのだ。
そして、私自身も。
普通の夫婦ならきっと、祝言を挙げて半年、遅いなんて考えなかっただろう。
でも、周囲の期待が重圧となり、私を焦らせる。
お子がお子がと、皆が言うのだ。
家臣らや女中らに加え、匡さんも楽しみだと言っていた。
そして何よりも千景様だ。
毎晩、俺の子を成せと私の身体を組み敷く。
どれほど待望されているのか、嫌と言うほど痛感していた。

「一日も早い朗報をお待ちしておりますぞ」

長老が最後にそう言って、ゆっくりと去って行く。
私はその背をぼんやりと見送ることしか出来なかった。
自分でも分かっていたことなのに、他者からこうもあからさまに催促されると余計に気が滅入る。
誰よりも子を望んでいるのは私なのに、その私が何をどう頑張ったとて、子が授かりものである以上、事態は動かない。

しばらく廊下に突っ立っていた私は、身体の芯まで冷え切ってからようやくそのことに気付き、のろのろと自室に戻った。

「奥方様?!」

部屋の前で私を待っていたらしい梅乃が、私の顔を見るなり血相を変えて近付いて来る。

「一体どちらに、ああ、こんなに冷えて、」

私の手を掴んだ梅乃が、慌てて私を部屋に引っ張り込んだ。
火鉢で暖められた部屋に入り、ようやく血の巡る感覚が戻ってくる。
でも、じわじわと暖まる手とは裏腹に、心はどんどん冷えていった。
そして頭もまた、冷静な判断力を取り戻す。

「……梅乃。私ちょっと、野分先生の所に行って来るわ」
「お加減が優れないのですか?でしたら私が呼んで参りますので、奥方様はこちらでお休み下さい」
「いえ、少し頭が痛いだけよ。薬を貰ってくるだけだから、梅乃は褥の支度をしておいて」

心配そうな様子の梅乃に大丈夫だと言い含め、私は一人、屋敷の離れにある野分先生の元を訪ねた。


「おや、奥方様。わざわざご足労頂かずとも、使いの者を寄越して下さればこちらから伺いましたのに」

朗らかに笑う野分先生に出迎えられ、私は小さく笑みを返す。

「どうぞお掛け下さい。顔色が優れませんね」

どうされました、と優しく訊ねられ、私は腹を括った。
いつかこうしなければならないと、分かっていた。
怖くて先延ばしにし続けていたけれど、もう、これ以上の猶予はないかもしれない。
何よりも自分自身が、中途半端な状況に耐え切れなくなったのだ。

「……先生に、ご相談があるのです」
「何なりと。お力になれるよう全力を尽くしましょう」

危険な賭けであることは分かっている。
でもこのひとのことは信頼出来ると、私には思えた。

「私の身体の、子を宿す場所が正常であるかどうか、確かめる術はありますか」

やがて私がゆっくりと紡いだ問いに、野分先生は目を見開いた。
はくはくと何度か唇が開閉し、やがて事情を察したのか、その表情が酷く真剣なものへと変わる。

「完璧に、とはいきません。ご存知の通り、女人が子を宿す器官は身体の奥にありますので、見ることも、直接触れて確かめることも出来ません。ですが、異常の有無をある程度把握することは可能です」

何も聞かずに答えてくれた医者としての優しさを、私はありがたく受け取った。

「それをお願いすることは、出来ますか」
「……奥方様。無論貴女様がお望みならばお調べしますが、先にその方法をご説明せねばなりません」

そう言って、野分先生は検査の方法を丁寧に説明してくれた。
まず、指を膣内に入れなければならないこと。
そこから気を送り込み、中の様子を探って調べるということ。
なるほど、野分先生が渋るわけだと私は納得した。

「このように、常識では考えられないような方法なのです。命の危険があるとなれば話はまた別ですが、そうでないのなら決してお勧めは出来ません」

千景様以外に、秘めたる場所を晒すということ。
嫌悪感や抵抗感がないと言えば嘘になった。
だが、もう手段は選んでいられないのだ。
命の危険どころの騒ぎではない。
千景様の子を成すことだけが、ここにいる私の存在意義なのだから。

「一つ、お願いが」
「なんでしょう」
「千景様にはどうか、ご内密に」

その言葉で野分先生は、私の決意を悟ってくれた。
今から検査するかそれとも日を改めるかと訊ねられ、私はすぐにと答える。
そうと決めた以上、焦らされては頭がおかしくなると思った。

「では、あちらの部屋に。すぐに用意して参りますので、しばしお待ち下さい」

私は隣の部屋に用意された褥に寝転び、天井の木目を睨み付けるように見上げる。
こんなにも恐ろしいと感じるのは、まだ京にいた頃、男たちに襲われた時以来だろうか。
あの時は千景様が助けに来てくれた。
全ての恐れから、私を守ってくれた。
でも今度ばかりは、それは叶わない。
今の私に、助けを求めて呼べる名などありはしなかった。



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