[26]小さなたなごころ
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すっかり涼しくなり、朝晩は冷え込むようになったとある日のこと。
私は、というか女中たちは、いつも以上に張り切って朝の身支度を進めていた。
というのも今日この日、私は千景様と紅葉狩りに出掛けることになっているのだ。
常日頃から、私は上質な着物を着せてもらっている。
だが今日のために千景様が用意してくれた着物は、いつにも増して美しかった。
落ち着いた青紫の朧染めに、濃淡にぼかした小花があしらわれている。
上等な着物に慣らされた私でも、一目見て気に入ってしまうほどだった。

「ああ、今日は一段と麗しゅうございますね」
「本当に。御当主様は奥方様にお似合いになるものをよくご存知でいらっしゃる」

その私以上にうっとりとした様子で着物を着付けてくれる女中たちの言葉に、私は面映くなる。

「いかがでしょう、奥方様」
「ありがとう。これで大丈夫です」
「とてもよくお似合いですよ。お美しゅうございます」

確かに、鏡に映った自らの姿は我ながら綺麗に思えて、着物の絶大な効果を実感した。
流石は千景様、の一言に尽きる。

「髪を結わせて頂きますが、簪はいつものものを?」
「ええ、そうしたいのだけれど合わないかしら」
「いいえ、お着物の生地に金通しが入っておりますので、相性はとても良いと思いますよ」

梅乃の答えに、よかった、と私は笑った。
着物に合わせ、また時と場合によってその度に挿す簪を変えてはいるが、やはり特別な日は千景様に最初に貰った簪を使いたい。

「奥方様は本当にこの簪がお好きですね」
「ええ。思い出の詰まった、大切なものだから」

まだ京にいた頃、散歩の途中に私が見つけた簪を、後日千景様が初めての贈り物として私に買ってくれた。
真紅から茜色、緋色、鉛丹色、黄丹、萱草色、花葉色、そして金色へと移り変わる色合い。
どの簪を気に入ったのかなんて口にはしなかったのに、見事に私が欲しいと思っていたものをくれたのだ。
その色を見る度に、お前は俺を思い出すのではないかと思った、と。
千景様が教えてくれた、この簪を選んだ理由。
その通り、私はこの簪を目にする度、いつも必ず千景様のことを考える。

「さあ、お支度が整いました」

鏡越しに簪を見て、私はそっと微笑んだ。


私は日頃、基本的に屋敷の外には出ない。
私が外出しようとすると護衛だ何だと大事になるので、気軽に出掛けたいとは言い出せないのだ。
その代わり月に一度か二度、千景様が休みの日に私を外に連れ出してくれる。
それは屋敷の周りを散歩するだけの日もあれば、厨人に用意して貰った握り飯を携えて少し遠出することもあった。
夏の夜に河畔で蛍を見たことは、特に印象深い思い出の一つである。
その時同様、今日の紅葉狩りもまた千景様が提案してくれたものであった。
昨夜急に明日は遠出すると言われた時は驚いたものだが、嬉しいことに変わりはない。
何よりも、せっかくの休日なのに私のことを気遣ってくれる優しさがありがたかった。


女中たちに見送られ、私と千景様は屋敷を後にする。
爽やかな秋風と、高い青空。
私に歩調を合わせてくれる千景様の半歩後ろを、私は幸せを噛み締めながら歩いた。
いつ里の者の目に触れるか分からない町中を歩く場合、本来ならば私は千景様の三歩後ろを付いて行くべきなのだろう。
でも最初に二人で屋敷の外に出た時、千景様はそれを許さなかった。
京にいた頃のように隣を歩け、と。
そう言われ、私はこの位置に落ち着いたのだ。
流石に真横を歩くわけにはいかなかった。

「良い天気ですね」
「ああ。寒くはないか」
「平気です。ありがとうございます」

私と千景様の間に、会話はそう多くない。
けれどもそれは、不自然な沈黙でもない。
時折言葉を交わしながら歩くことは、目的地がどこであれ、その道中すら楽しかった。

里の中なのだから、当然、途中で民とすれ違うことも多い。
そういう時、千景様に気付くと皆急いで道の端に避け、深々と頭を下げた。
うっかり大通りを歩いたりすれば、道の両端にずらりと列が出来るのだ。
なんというか、圧巻である。
千景様にとっては見慣れた光景だろうが、私にしてみれば居心地悪いことこの上ない。

あれは、何度目の外出の時だっただろうか。
並んで頭を下げる者たちの中に、何人か、まだ幼い童がいたのだ。
親に言い付けられたのか大人たちに倣って頭を下げた少年はしかし、千景様が通り過ぎてしばらくの間ずっとその体勢のままでいなければならない、ということを忘れていたらしい。
千景様が目の前を通ってすぐに、ひょこりと頭を上げたのだ。
半歩後ろを歩いていた私は、当然それに気付いた。
列の中で一人だけ顔を上げたその少年に、その時私はつい、こっそりと手を振ってしまったのだ。
次の瞬間、少年はぱっと笑みを浮かべて私に手を振り返してくれた。
私の控えめなそれとは異なり、ぶんぶんと大きく振られた手。
すると今度は、隣にいた少女がそれに気付いた。
恐る恐る顔を上げた少女が、少年に釣られたのか、周囲をちらりと確認してから小さく手を振ってくれた。
恐らくそれは、皆にとってはあり得ない出来事だったのだろう。
童たちの行為と私の対応に、周囲の空気がざわりと揺れた。
皆との距離を縮めたくてつい手を振ってしまったものの、不味かっただろうかと私が焦ったのも束の間。
なんと、少女の隣にいた彼女の母らしき女性も、中途半端に顔を上げて恐々と手を振ってくれたのだ。
そこからは、あっという間だった。
波紋のように広がる、手を振る者たち。
千景様の後を付いて歩く私がこっそりと後ろを振り返ると、皆が手を振ってくれていた。

それ以降だ。
千景様と私が揃って歩くと、皆が必ず手を振ってくれるようになったのは。
勿論、千景様の目の前で堂々とするわけではない。
私たちが目の前を通り過ぎた後、背後でこっそりと手を振ってくれるのだ。
だから私はちらりと振り返り、手を振り返すようにしている。
皆はどうやらそれを千景様には気付かれていないと思っている様子だが、当然そんなことはなかった。
千景様は最初から、私の行動にも皆の行動にも気付いている。
知った上で、知らないふりをしてくれているのだ。
その証拠に、町中で誰かとすれ違う時、千景様はその歩調をさらに緩める。
私が名も知らぬ誰かとこっそり視線を交わす時間を、わざと作ってくれているのだ。
相手が男性の場合、逆にその歩調はなぜか速くなってしまうのだけれど。
そういう意味でも私は、屋敷の外に出る日が楽しくて仕方なかった。

私は千景様とは異なり、この里の民のために何かが出来ているわけではない。
でも、象徴的な存在の意味を知らないわけでもなかった。
別に自分のことを尊いだとか偉いだとか、そういう風には思わないけれど。
そこに暮らす者にとって、頭首とその正室が変わらず在るということは、即ち平和の象徴だ。
そして千景様は、里の者にとても慕われている。
同時に畏れられてもいるようで、話しかけようとする猛者は流石にいないのだけど。
でも皆、この里を守っているのが千景様であることを、ちゃんと知っている。
だから私は、その妻であることを誇ろうと思うのだ。



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