[25]縋る指先
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記憶も意識も吹き飛ぶほど激しく抱かれた翌日、私は丸一日を褥の上で過ごすこととなった。
理由は至って単純で、腰痛があまりにも酷く立ち上がれなかったのだ。
奥方様は腰の痛みで立てないらしい、なんて噂が回れば、昨夜何が起こったのか屋敷の者には丸分かりになってしまうわけで。
私は一日中、酷く気恥かしい思いで寝所に籠ることとなった。
一番恥ずかしかったのは、日中に匡さんが見舞いに来てくれた時だ。
八ツ時だからと饅頭片手に訪ねられ、私は狸寝入りし損ねたことを心底悔いた。
匡さんが羞恥ゆえ真っ赤になった私の顔を見て、熱があるのだと勘違いしてくれたことは不幸中の幸いだったと言えるだろう。
ちなみに、長居することなく去って行った匡さんの置き土産は、梅乃と一緒にありがたく頂いた。

そして驚くべきことに、夕餉の膳はなんと千景様がわざわざ持って来てくれたのだ。
座椅子に私を座らせてくれた千景様と、一緒に食事を摂ることとなった。

「お仕事は良かったのですか?」
「もう済んだ」
「そうでしたか。私はてっきり、匡さんのご滞在中は夕餉も、」
「ナマエ。俺といる時に他の男の名を出すな」
「……は、ぁ………すみません……?」
「彼奴のことは放っておけばよい、分かったな」

正直、何がどう良いのかは分からない。
だが、昼間に饅頭を貰ったことは千景様には伏せておくべきだ、ということは分かった。
相変わらず、仲が良いのか悪いのか、はっきりしない二人である。
顔を合わせる度に罵り合っているのに、時に二人で延々と酒を酌み交わしたりもするのだから、男性の交友とは不思議なものだ。
好きなわけではないが、遠慮なく接してくる数少ない相手として、気に入っている部分もある、ということなのだろうか。
風間家の当主、西国の頭領。
千景様は誰よりも敬われ、そして誰一人として並び立つことの出来ない立場にいる。
その孤独は、もしかしたら時に寂しいものなのかもしれない。
だから匡さんや、側近だけれど容赦なく苦言を呈する天霧さんを、煩わしいと言いつつも本気で斬り捨てようとはしないのだろう。
千景様は意外と義理堅いのだ。

ふふ、と笑みを零せば、碗を持ち上げた千景様が訝しげに眉を顰めた。

「なんだ」
「いえ。……美味しいなあ、と」

昨日の宴の方が、膳はずっと豪華だった。
でも私にとっては、千景様と二人で食べるこの夕餉の方が美味しくて。
妙な女だと目を眇めた千景様を前に、私はまた笑みを零した。


匡さんは、屋敷に一週間逗留した。
言うまでもなく、千景様はその間、普段よりも明らかに不機嫌だった。
元より他者に厳しい方ではあるが、この一週間は常に輪を掛けて酷く、その険悪な雰囲気に怯えて些細な粗相をした女中など、千景様に睨まれて半泣きになったほどだったという。
決して匡さんが悪いわけではないのだが、屋敷にとってはとんだ厄災だ。
皆神経を擦り減らし、匡さんが帰ると分かった時には陰で安堵の息を漏らしたらしい。
そして私もまた、正直に言うとその知らせにほっとした一人である。
どうやら千景様は機嫌が悪いと夜が激しくなるようで、一週間、私は一日の大半を寝所で過ごすという怠惰な生活を余儀なくされていたのだ。
朝起きて千景様が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのは確かに擽ったくて嬉しいのだが、何事にも限度というものがある。
匡さんには申し訳ないが、これで明日から腰痛が少しはましになると思いながら、私は支度を整えた匡さんの見送りに出た。
勿論、腰の痛みは笑顔の裏に隠し切る。

「道中お気を付け下さいね」

表玄関には匡さんと、途中まで送るという天霧さんが立っていた。
外は快晴で、雨の心配はなさそうだ。

「おう。お前も、あんま無理すんなよ?風間に虐められたら天霧に言うんだぞ?」

両手に手土産を提げていた匡さんが、それを一纏めにして、片手で私の頭を撫でる。
私は乱れた髪のまま苦笑した。

「次来る時は子が産まれてるかもなあ。楽しみにしてるぜ」
「そう、ですね」

匡さんが、励ますように私の肩をぽんぽんと叩く。

「じゃあな」

そう言って、匡さんが身を翻したその時だ。
私の背後で、刀を鞘から抜く鋭い音がした。
信じられない思いで振り返れば、右手に抜き身の刀を構えた千景様の姿。

「ちっ、千景様!」

慌てふためく私など無視して、千景様がゆったりと歩を進める。

「さて不知火。貴様の不出来な頭でも、俺が言わんとすることは承知しているだろうな?」

歩きながら好戦的に口角を上げた千景様の瞳孔が、完全に開いていた。
私同様振り返った匡さんの顔が青褪める。

「待て待て待て!なんでこんな所で刀抜いてんだ!」
「何故?わざわざ説明する必要がどこにある」
「そういうことじゃねえ!風間!」
「そこに直れ、不知火。安心するがいい、一撃で首を落としてやる。恨むなら、尾籠な真似をした己を恨むことだ」
「ちょ、おい!天霧!止めろ!」

とんだ大惨事だ。
殺気立って匡さんに迫る千景様に、慌てて天霧さんに助けを求める匡さん。
そして、心底呆れ返った顔の天霧さん。
私はといえば、どうしていいのか分からず立ち竦むばかりである。

「俺は再三言ったはずだ。我が妻に触れるな、とな。貴様の耳は飾り物か?それとも鶏のように三歩歩けば忘れる脳味噌しか持たんのか?嘆かわしいことよ」

千景様の纏う殺気がさらに濃くなり、私の背筋を冷たいものが這い上がった。
まさか本当に斬ったりはしないだろうと思っていたが、これはもしかしたら不味い状況なのではないだろうか。

「ならば貴様には耳も脳もいらんな。まずは耳から切り落としてやろう。その後に脳天を一突きだ」

後退る匡さんと天霧さんもまた、本能的に危険を察知したらしい。
それぞれの右手が、刀の柄に伸びる。

「いい度胸だ、蛆虫め。構わん、抜いてみせろ。その瞬間が貴様の最期だ」

千景様の後ろ姿しか見ていない私でも分かった。
千景様は今、残虐な薄笑いを浮かべているに違いない、と。

「ちかげ、さま……っ!」

私は震える足で前に踏み出し、そのまま殆ど転けるような頼りなさで千景様の背にしがみ付いた。
白い着物を握り締め、その背中に額を押し付ける。

「……邪魔立てするな」
「いいえ……っ」
「ナマエ」
「聞きません」

短い問答の末、しばらくの沈黙を経て千景様が大きな溜息を吐き出した。
私の肩がひくりと跳ねる。
その瞬間、千景様の殺気がふっと立ち消えた。

「離せ、ナマエ」

刀を鞘に収めた千景様にそう言われ、私は目の前の着物を掴んだ手を離そうとする。
しかしどうしてか、指が固まってしまっていて動かせなかった。

「……あの、すみません……指が、動かないです」

正直に白状すれば、千景様がまた嘆息する。
流石にこれは申し訳ないと私が項垂れると、千景様は関節を目一杯に曲げて後ろ手に私の手に触れた。
私の手を無理矢理引き剥がそうとはせず、手の甲をゆっくりと摩られる。

「刀を抜いた男に縋る馬鹿があるか、この馬鹿者」
「……ばかって、二回言いました」
「今すぐ押し倒されたいのか」
「ごめんなさい」

千景様がくつくつと喉の奥で低く笑った。
それに安心したのか、それとも触れた手の温もりに緊張が解れたのか、指先に血の巡る感覚が戻ってくる。
私はそっと千景様の着物から手を離した。
そのまま一歩後ろに下がれば、千景様が振り返る。
私を見下ろした千景様は、呆れたように笑っていた。

「寝所には連れて行ってやろう。この俺の寛大さに感謝するといい」
「へ?あの、千景様、まだお昼で、」
「待たん」

千景様が、まるで米俵のように私をひょいと担ぎ上げる。
匡さんと天霧さんは、いつの間にかいなくなっていた。



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