[21]とある夏の日に
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今日も今日とて、りんと風鈴が鳴る。
その澄み切った音に、私は切りの良いところまで読み終えた書物から顔を上げた。
千景様の色をした風鈴が、風に揺れている。
身体の内からじわりと溢れ出る幸福感に、私はそっと笑った。
会合の土産だとこの風鈴を貰った最初の三日間なんて、音が鳴る度に顔を上げてしまい、勉強になかなか集中出来なかったのだ。
私は書物を卓に置いて、凝り固まった肩を解すように腕を上げて伸びをした。
政というものは、何とも奥深く難しい。
素人考えではもっと単純な気がするのに、いざ緻密に突き詰めていくと事はそう容易に運ばないようだ。
こんなことを毎日考えている千景様は凄いと、改めて尊敬の念を深めるばかりである。

再び風が吹き、風鈴が揺れた。
どうやら今日は、昨日までより幾分か涼しいらしい。
根を詰めても捗らないと自分に言い訳をして、私は立ち上がった。
続きは、庭をくるりと一周散歩してからにしよう。
私は縁側に出て草履を履き、いつ見ても見事に手入れされた庭に降りた。
しばらく花を眺めながらのんびり歩いていると、井戸の側に人影が見える。
手水桶と柄杓を持っているから、花の水やりだろう。

「やよ子」

馴染みの下女の名を呼べば、やよ子は驚いた様子で振り返った。
その拍子にやよ子が手水桶を落としてしまい、中にたっぷりと入っていた水が宙に舞ったかと思うと、次の瞬間ばっしゃんと派手な音を立てて降り注いだ。
私は突然のことに、目を瞬かせる。

「ーーーっ!も、申し訳ございません!!」

我に返ったのは、上擦った悲鳴みたいな声でやよ子が謝罪し、その場に土下座しかけたからだ。
私は慌てて足を踏み出し、やよ子の膝が地面に着く寸前でその身体を抱き留めた。

「待って待って、謝らないで!」
「し、しかし奥方様!」

やよ子が一体何に慄いているのか、私もようやく理解する。
跳ねた水が私にも掛かり、着物が濡れてしまったのだ。
だがそれだけである。
それだけなのだが、下女という立場のやよ子にとってはどうやらとんでもない大失態らしい。
半泣きで謝り続けるやよ子も濡れているのに、本人はそんなことお構いなしの様子だった。

「ふ、ふふっ」

庭の片隅で水浸しになった、二人の女。
必死なやよ子には申し訳ないが、不意にこの状況がとても可笑しく感じられて、私は思わず笑ってしまった。
突然笑い出した私を、やよ子がぽかんと見つめてくる。

「ごめんなさい。なんだか可笑しくて。水遊びなんて、いつ以来かしら」

そう言って、今度ははっきりと笑みを向けて見せれば、私が怒っていないということをようやく理解したらしいやよ子がほっとしたように表情を緩めた。
互いをまじまじと見てみれば、なかなかの濡れ具合である。

「奥方様、すぐにお召し替えを、」
「ええ。でも、暑いしすぐ乾きそうよ」
「それは、そうかもしれませんが、」

やよ子に眉を下げられ、私はこれ以上困らせるのは申し訳ないと思った。
たとえ私が気にしなくても、やよ子は気にするのだ。
それは仕方のないことである。

「ごめんなさいね、突然声をかけて」

部屋へと戻る道中にそう言えば、背後でやよ子がまた焦った様子を見せた。

「いえっ!私がもっと気を付けなければならなかったのです。……その、奥方様は気配を消すのがお上手でいらっしゃいますから」
「え?そう?」
「はい、皆そう言っておりますよ」
「そうなの、知らなかったわ」

初めて言われた。
確かにミョウジは気の扱いに長けた一族だ。
だが私自身、あまりそれを意識したことはなかった。
普段、わざわざ気配を殺して生活しているつもりもない。
確かに立場上、廊下をどたばた歩くような品位を損なうことは出来ないので、極力静かに行動するよう気を付けてはいるが、気配にまで気を遣ってはいなかった。
それとも、長く続いた人間から逃げ隠れする生活の中で、自然とそういう癖が身に付いたのだろうか。

「何をしている」

そんなことを考えながら庭を歩いていると、不意に低い声が鼓膜を揺らして私は大層驚いた。
やよ子など、文字通り跳び上がって驚いた。
無理もない。
私の部屋の前の縁側に、千景様が立っていたのだ。
普段、この時間にこんな所にいることは滅多にないのに。

「千景様。少しばかり、庭を散歩しておりました」

縁側に近付いてそう答えると、千景様は思い切り眉を顰めた。

「ほう。お前の言う散歩とは、小童のように水浸しになることか?」

どうやらこれは不味い状況らしいと、私は悟る。
縁側と庭との高低差も相俟って、上から私を見下ろす千景様の形相はなかなかに恐ろしかった。
少なくとも、私の背後にいるやよ子を震え上がらせる程度には。

「申し訳ありません。ちょっとした不注意で」
「さっさと着替えろ、このうつけが」

やよ子に飛び火するのはあまりに可哀想で、私は急いで縁側に上がった。
千景様が、今回ばかりは間違いなく不機嫌そうに鼻を鳴らして、その場を立ち去る。

「貴女も早く着替えていらっしゃい」

私はやよ子にそう言い残し、急いで部屋に入ると着物を着替えた。
千景様は、何を怒っていたのだろうか。
私が勉学を疎かにして呑気に散歩をしていたことか、それとも濡れてはしたない格好をしていたことか。
はたまた、単に機嫌が悪かっただけなのか。
何にせよもう一度謝らなければならないと着替えを終えて廊下に出てみれば、そこには腕を組んで壁に凭れた千景様の姿があった。
私を頭の天辺から爪先まで見遣り、濡れていないことを確かめた千景様が、大袈裟に溜息を吐き出す。

「大事な身体だ。粗末に扱うな」

なるほど、心配をしてくれていたらしい。
真相を知った私は、静かに頭を下げた。
千景様が、そんな私の頭をぽんと軽く叩く。
相変わらず分かりにくい方だと、私は俯いたままこっそり苦笑した。



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