[18]目指す未来
bookmark


かつて千景様の乳母だったというその女鬼は、目元に深い皺を刻んで穏やかに微笑み、豊と名乗った。

「ナマエと申します。今日からお世話になります」

私はこのお豊さんから、風間家の歴史とこの里の治世について学ぶことになっている。
つまりこの女性が、私の先生というわけだ。
武人みたいな男性に扱かれるのは流石に怖いと思っていたので、優しげな女性でほっとした。
だが、千景様の乳母というのは伊達ではないだろうということも分かっていた。
だって、あの千景様である。
いつ頃からあんな性格になったのかは知らないが、私が勝手に想像する千景様は幼少期から大層な気分屋という設定なのだ。
そんな千景様を育てたというのだから、きっとこの女性は一見優しそうに見えて実は怒ると大層恐ろしいのだろう。
などと失礼なことを考えながら、私は用意された座布団の上に腰を下ろした。
卓上には私のために蔵から引っ張り出してきてくれたという、歴史書やら系譜やら地図やらが所狭しと並んでいる。
勉強など、いつ以来のことだろうか。
元来学ぶという行為が好きな上にその内容が千景様に関するものとあって、私は始まる前からこの状況を喜んでいた。
何もすることがないよりずっといい。

いざ始まってみれば、お豊さんののんびりとした口調で語られる歴史に若干の眠気を覚えなかったと言うと嘘になってしまうのだが、精一杯に学んだ。
正直、学びすぎたのではないかと思う。
まさか千景様の愛刀、童子切安綱の歴史まで事細かに説明されるとは思っていなかった。
当然そんな厖大な歴史の勉強が一日で済むはずもなく、勉強会は来る日も来る日も続いた。
歴史が終われば次は西国の地理で、その後は里の統治の仕組みについて学んだ。
一通り、お豊さんが頭首の正室として知っておくべきと判断した内容を頭に叩き込み終えた頃には、季節が変わってすっかり夏になっていた。
少しばかり勉強嫌いになったことは、私だけの秘密である。

何も、私は毎日勉強ばかりしていたわけではない。
並行して様々な習い事もせねばならなかった。
華道、茶道、歌道、書道や香道といった芸道に、琴と三味線。
この手のことは何でも出来て当然というのが、風間家の正妻らしい。
幸い私はミョウジ家の一人娘として一通りの嗜みがあったので、何かを一から会得せねばならないということはなかった。
だから私に必要だったのは、西国の地で伝承された特有の文化を学ぶことだった。
例えば、代々風間家で愛されてきた祭の曲を弾くことだったり、これまた風間家で愛されてきた伝統花を知ることだったり。
それらを毎日少しずつ教わることは、大変ではあるものの楽しかった。


「奥方様、お茶をお持ちしました」

襖の向こうから掛けられた声に、私は手元の書物から顔を上げた。

「ありがとう、入って下さい」

襖が開き、見慣れた顔が覗く。
梅乃は実に丁寧に一礼し、盆を持って部屋へと入って来た。

「今日は暑いので冷茶にしてみたのですが」
「ああ、いいですね」

盆の上には二つの薩摩切子。
私がここに来た頃、梅乃は決して私と一緒に茶を飲もうとはしなかった。
そんな失礼は出来ないと固辞する梅乃を、私は何度誘っただろうか。
いよいよ困り果てた梅乃がようやく折れてくれたのは、つい半月程前のことである。
私はやっと、一緒に茶を飲んでくれる者を一人増やすことが出来たのだ。
千景様と天霧さんと、梅乃。
ようやく三人目である。
千景様と天霧さんは言うまでもなく公務に追われ、日中に顔を合わせることはあまりない。
だから私の話し相手はといえば専ら梅乃になるわけで、そんな彼女の前で自分だけ呑気に茶を啜るのは嫌だったのだ。

「今日は何のお勉強をされているのですか?」

そんな梅乃は、いざ一緒に茶を飲んでみると開き直ったのかそれとも肩の力が抜けたのか、少しずつではあるが他愛ない話を進んでしてくれるようになった。

「今日は法度。これ、凄く分厚いの」

私はそう零して、手元の法度書を振る。
何を隠そう、かつてこれを定めたのは千景様だった。
西国の統一にあたり、この地の者たちが皆安心して暮らせるようにと定められた規律とその違反者への罰則。
最初に大まかな説明を受けて以来あまり気にしていなかったその委細を改めて学ぶと、この法度がいかに優れたものであるのかよく分かった。
豊かな経験と想像力をもとに、熟考に熟考を重ねて作られたのだろう。
隙と容赦のなさ、それなのに思いやりも感じられる、まるで千景様そのもののようなこの書が、私は好きだった。
項目の多さに辟易させられるのも、嘘ではないけれど。

「毎日毎日大変でございますね」

梅乃が、本心であろうと分かる同情をくれた。
私は小さく笑って、大丈夫だと首を振る。

「何をするにも、まずは知らなければ」

私はこの里で、少しずつ自分の在り方を見つけ始めているところだった。
大層な方針ではない。
簡単に言ってしまえば、千景様の言葉通り、好きに生活することにしたのだ。
私は、私のしたいことをする。
では何をしたいのかと問われれば、答えはいくつかに絞られた。
まず一番に、千景様の支えとなりたい。
立派なことが出来るとは思っていないが、せめてこの里を背負って毅然と立つ千景様に寄り添えるようになりたいと思った。
次に、いずれ子を成した時、千景様の世継ぎとして相応しい子になるよう育てたい。
勿論世継ぎの教育は私だけに委ねられるものではないが、やはり母として、子に恥じない大人でありたいのだ。
そして最後に、出来れば千景様と私に仕えてくれる家臣の皆様や女中たち、そして里の者たちと仲良くなりたい。
主人と臣下、長と民。
もしかしたら千景様は、仲良くなりたいなどという稚拙な願いを軽蔑するかもしれないけれど。
それでも私は、せっかく共に生き共に暮らす者たちと、少しでもいいから何かを共有したかった。
立場を忘れるつもりはない。
ただ少しばかり、距離を縮めてみたかった。
だからこうして一緒に茶を飲めるようになったことが、私はとても嬉しいのだ。

千景様を支えるには、正室としての教養を身につけなければならない。
立派な世継ぎを育てるためには、風間家のことを理解しなければならない。
そして家臣や民との距離を縮めるには、彼らが長く暮らしてきたこの里のことを学ばなければならない。
何事も、まずは知ることから始まるのだ。



prev|next

[Back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -