[17]失われた過去
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風間の屋敷には、お抱えの医者が三人いる。
一人は勿論、千景様の専属だ。
そしてこの度、ほか二人のうちの一人が、私の専属医として仕えてくれることになった。

「お目にかかる日を楽しみにしておりました、奥方様。医師の野分と申します」

婚礼の儀の翌々日、健康状態の確認のためという理由で、私は初めて野分先生と顔を合わせた。
黒い短髪に白衣という、清潔感のある格好が印象的だ。
鬼の外見など当てにはならないが、見た目だけで言えば千景様よりも幾分か年下だろうか。
優しげな顔立ちに、私も自然と笑みを浮かべた。

「お初にお目にかかります、ナマエと申します」

仕えてくれる者にあまり頭を下げてはいけないと分かっていても、相手が医者と言われるとつい一礼したくなるのは仕方ないと思いたい。
軽く頭を下げた私に対し、野分先生は少し驚いた様子を見せた。
やはりもっと威厳やら何やらが必要なのだろうかと落ち込んでいると、野分先生が小さく苦笑する。

「やはり覚えてはおられませんか」
「え?」
「実は、初めましてではないのですよ」

そう言って困ったような笑みを見せられ、私もまた困惑した。
生憎とその顔に見覚えはなかったからだ。

「その、すみません……」
「いえいえ、貴女が謝ることでは。お会いしたのはもう随分と昔の話ですしね。覚えておられなくて当然です」

慌てて、気にすることはないと手を振ってくれたが、申し訳なさは拭えない。

「どこでお会いしたのか、伺っても?」
「貴女がまだうんと幼い頃ですよ、ナマエ様」
「……まさか、ミョウジの里で?」
「ええ」

今はもうない、生まれ故郷。
久しぶりに口にした生家の名に、胸の奥に仕舞い込んだ古い傷が切なくなった。

「本当に、何と申し上げてよいのか………あまりにも残酷な出来事でした………」

私の表情から察したらしい野分先生が、しかし慰めの言葉を見つけられない様子で唇を噛む。
私は静かに頬を緩め、首を左右に軽く振った。
かつて、人間に焼き払われた里。
私一人を残して死に絶えた一族。
決して癒えることのない遠い過去。
それでももう、後ろは振り返らない。

「覚えていないのは、もしかしたら記憶のせいかもしれません」
「記憶とは?」
「実は、昔の記憶が殆どないのです」

私は簡単に、自らの不完全な記憶について説明した。
原因は、事件に対する悲しみや怒りだったのか。
何にせよ、一族皆殺しは幼い私にとって耐え切れないほどの衝撃だったらしい。
私は事件後、ミョウジの里に暮らしていた頃の記憶の大半を失っていた。
両親や乳母の顔、屋敷にあった自室の内装、そこから見える庭の景色。
そういった身近なものの記憶は薄ぼんやりと残っているし、身に染み付いた生活の術や芸道も覚えているが、言い換えればそれ以外は殆ど何も覚えていなかった。

「そうでしたか……」

野分先生が私よりも余程沈痛な面持ちを見えるので、私は却って気が楽になった。
実はこの記憶については、これまで八瀬の姫様にしか打ち明けたことがなかったのだ。
話すと楽になるとはよく言ったもので、なんとなく、肩の荷がまた降りた気がした。

その後、問診と簡単な検査を経て、私は健康状態に何ら問題はないとのお墨付きを貰った。

「僕は常にこの屋敷に滞在させて頂くことになっております。何かございましたら、それが例えどれほど些細なことであっても、必ずご相談下さい」

頼もしい言葉が、とても嬉しい。
過去に繋がりがあったという事実は、無条件で信頼の度合いを高めてくれた。
自らの命を預ける相手なのだ、相性が良いに越したことはない。
幸運な出会いに、私は深く感謝した。


その夜、私が姫様に宛てた手紙を認めていると、公務を終えた千景様が戻って来た。

「医者は、特に何も問題ないと言っていたが」

開口一番にそう切り出される。
ただの検査なのに、心配してくれていたのだろうか。

「はい。至って健康体だそうですよ」

私の報告に、千景様はそうかと頷いて枕元に腰を下ろした。
私としてはむしろ、千景様の身体の方が心配だ。
朝から晩まで働き詰めで、体調を崩したりはしないだろうか。
千景様が柔でないことを知ってはいても、忙しそうな様子は少し気掛かりだった。
しかし私が案じたところで、千景様の仕事が減るわけではない。
せめてもう少し何かの役に立てるようにならなければと、私は内心密かに決意した。

「して、身体が健康そのものなら構わぬな?」

何の話かと問う前に、千景様の指先が唇に触れる。
すっとなぞられ、意味を問う必要性はなくなった。

「こ、今夜も、ですか?」

これで三夜連続である。
夫婦の情交とはそういうものなのだろうか。
生憎と比較する対象を知らないため、これが一般的なのか否かが分からない。

「何か問題が?」
「いえ、そういうわけではないのですが、」

少し戸惑っているだけで、決して嫌なわけではない。
素直にそう答えれば、千景様は薄く笑って私を布団に押し倒した。

「俺の子が欲しいだろう?」

妖しく光る紅の瞳には、有無を言わせぬ力がある。
私はそっと息を吐き出し、身体の力を抜いた。



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