[14]二人きりの夜に
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置き行灯に照らされた、薄暗い寝所。
枕元には儀式用の床盃。
敷かれた布団の上に座した私は、その時を待っていた。
そして。
部屋の外に感じた気配に、三つ指をついて頭を下げる。
襖の滑る音が、いつもより少しばかり大きく聞こえた。
千景様の足の爪先を視界の端に収めつつ、私はそっと息を吸い込んだ。

「お待ちしておりました、千景様。不作法な振る舞いもあるかと存じますが、何卒、」
「不愉快だ」

昨日教え込まれた口上を一字一句違えずなぞろうとした私の言葉は、見事に一刀両断される。
言葉通り明らかに不快そうな声音が頭上から降ってきて、私は顔を伏せたまま固まった。
血の気が引いていくのが自分でも分かる。
機嫌を損ねないようにという女中頭の忠告は、開口一番で水泡に帰したらしい。

「……あ、の……」
「昨日余計なことを叩き込まれたと見える。女中の戯言など忘れてしまえ」
「はい?」

恐怖よりも疑問が打ち勝ち、私は思わず顔を上げた。
その眼前に、千景様がどさりと胡座を掻いて座る。

「己の言葉で話せ。形式だの決まり文句だのはいらん」

大層不機嫌な口調で続けられた言葉の意味を理解するなり、私は思わず笑ってしまった。
本当に、この人は横暴で身勝手で、そして優しい。

「……千景様、」
「なんだ」
「すごく、恥ずかしくて、少し怖くて、でも、嬉しいです」
「……ああ、それでいい」

言うに事欠いて、と叱られそうな私の馬鹿正直な発言を聞き届けた千景様が、満足げに双眸を細めた。
枕元から銚子を取り上げた千景様が、鼻に近付けてすんと匂いを確かめる。

「何も混ぜていない、か」

そう独り言ち、千景様は二つの杯を酒で満たした。
その一方を無造作に差し出され、私はそれを慎重に受け取る。
千景様は何を言うでもなく一息に酒を飲み干したので、私もゆっくりと口を付けた。

「ミョウジ家がそうであったように、風間もまた歴史が長い」

酒を飲む私を横目に、千景様が語り出す。

「しきたり、形式、古臭い習慣に固執する者も多い。面倒なことこの上ないが、当主である以上俺もある程度はそれに則って動かざるを得ん」

これもその一つだと、千景様は空になった杯を揺らした。

「だが彼奴らに、夫婦の会話や目合いにまで介入させるつもりはない。いいな」
「はい、千景様」

酒を飲み干し、杯を千景様に返す。
その手首を、千景様に掴まれた。

「もう一つ。この屋敷は、お前の家だ。言動を制限するものは何もない。女中の言うことが気に入らなければそう言え。好きに生活しろ」

それは流石に、と私は苦笑した。
主人ならばともかくその妻では、やはり遠慮というものがある。

「ナマエ。風間家の当主はこの俺だ」
「それは勿論、存じておりますが」
「つまり、この屋敷で一等偉い」
「そうなりますね」
「その俺が是といえば是だ。否と言えば?」
「……否、です」

ここでお前が窮屈な思いをすることは許さん、と千景様は口角を上げた。
無茶苦茶である。
そうは言ったって、では明日いきなり掃除を手伝わせて下さいと頼んでみたところで下女が了承するわけない。
でも、千景様の気遣いが嬉しかった。
気にかけてくれているのだと分かったから、それだけで良かった。

「つまらん話は終いだ。覚悟はいいか」
「お手柔らかに、お願いしたいのですが」

ふん、と千景様が鼻を鳴らす。
行灯の明かりを受けて、紅眼が妖しく煌いた。

「お前次第だが、まあ善処してやらんこともない」

その答えは、殆ど否なのではないだろうか。
という指摘は、口吸いによって千景様の咥内に消えた。
見た目よりも柔らかな唇に私のそれを食まれ、私は千景様の着物にしがみ付く。
千景様が唇を重ねたままその端を僅かに持ち上げたのが分かった。
唇が離された途端、詰めていた息を慌てて吐き出す。
鼻で息をすればいいということは既に教えられているのだが、今一つ慣れなかった。
間近に見る千景様の秀麗な顔立ちに、心の臓がとくんと跳ねる。
今宵は接吻では終わらない、その意識が身体に異変を齎していた。
胸の辺りが痛くなるような、身体中が火照るような、そんな感覚。

「ナマエ」

呟くように私の名を呼んだ千景様の両腕に捕らえられ、私は逞しい腕の中に囲われた。
硬い胸板に頬を擦り寄せると、千景様の匂いが強くなる。

「今宵、お前を俺のものにする」

頭上から低く響いたその言葉に驚いている間に、私の身体は褥に押し倒されていた。
身体の上には、覆い被さるようにして私の腰を跨いだ千景様の姿。

「未来永劫、お前だけが我が妻だ」

千景様の端整な顔を、橙の灯りが照らす。
常よりも深い色合いの金糸に縁取られた美貌が、ひどく真剣な表情を浮かべていた。
ゆらりと揺れる紅眼に見下ろされた私は、指一本動かすことさえ叶わない。

「……はい、千景様」

でも、もう怖いとは思わなかった。



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