ときめくくちびる
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つい。うっかり。出来心で。反射的に。
表現としては、恐らくそれら全てが妥当だった。
秋山が目を覚まし、若干の眠気を残したまま緩慢に瞼を持ち上げた先。
カーテンの隙間から射し込む白い朝日に照らされた視界の中心で、まず焦点を結んだのは薄桃色の唇だった。
寝起き直後のまだ不明瞭な意識は、瞬間的にそれを美味しそうだと判断する。
そして、まるで磁石のS極とN極が単独で存在し得ないように、秋山は何の躊躇も疑問も抱かず目の前の唇に吸い付いた。
自らのそれよりも僅かに体温の低い唇を柔らかく食み、その予想通りの美味しさに脳のどこかが気持ち良くなってようやく、秋山は正しく状況を理解する。
つまり、まだ眠りの中にいるナマエに無断でキスをしているということに、やっと気付いた。
しまった、と思う。
思ったが、唇は離さなかった。
というよりも、離せなかった。
無防備で柔らかなそれをそっと啄ばんでいるうちに、思考が正常に機能し始める。
口付けをしながら至近距離で見つめた先、ナマエはまだ目を閉じて眠っていた。
これが、歓喜を噛み締めずに居られるだろうか。
あの気配に敏感なナマエが、秋山の隣で深く眠り、剰えキスをされても起きないなんて。
他の誰が相手でもーー言わずもがな、他の男にナマエへのキスを許すつもりなど毛頭ないがーーこの無防備さはあり得ないと分かっているからこそ、秋山は唇をくっ付けたまま優越感に浸って口角を上げる。
ゆっくりと布団の中から左腕を引き抜き、慎重にナマエの頬を撫でた。
柔らかな光に包まれたその白い頬を親指の腹でなぞっても、ナマエの寝息は静かに繰り返される。
秋山は不意に、ちょっとした悪戯を思い付いた。
このままキスを深くしていけば、どこでナマエは目を覚ますだろうか。
せっかく気持ち良さそうに眠っているナマエを起こすのは些か申し訳ないのだが、今日は幸運にも二人揃っての非番である。
目を覚ましても、まだ眠いのであれば贅沢な二度寝が許されるのだ。
その後にふわふわのオムレツを作ればきっとナマエは許してくれるだろうと、秋山は己の身儘な悪戯心を優先させることにした。

「ナマエさん、」

殆ど吐息のような声で囁いてから、再度、唇を重ね合わせる。
触れるだけのキスを幾度か、さらに、上下の唇でナマエの下唇を軽く挟んだ。
その柔らかな温もりを存分に堪能してから、ゆっくりと舌でなぞる。
それでもナマエが目を覚ます気配はなく、秋山は調子に乗ってその舌先で唇を割った。
ぴたりと閉じられた歯列を突く。
するといい加減にナマエも違和感を覚えたのか、ん、と微かな音が寝息に混ざった。
起こしてしまったかと、最初からそのつもりだったくせに急に申し訳なさが込み上げる。
そのままキスを続ける度胸はなく、秋山はそっと唇を離した。
間もなくその瞼が開くだろうと見守る秋山の視線の先、僅かにナマエの眉間が狭まり、秋山の唾液で濡れた唇が微かに蠢く。
しかし秋山の予想に反して、開いたのは瞼ではなく唇だった。

「………ん………、ひ、もり………」

その瞬間の衝撃を、どう言い表せばよいだろうか。
未だ意識の覚醒しないナマエの唇から漏れた寝言は、想定外にも秋山の名前だった。
ぽつりと呟いたきり再び静かに寝息を立てるナマエを呆然と見つめ、秋山は無音のままに唇を開閉させる。
まさに絶句だった。
寝ている間にキスをされ、起きるのかと思いきや寝言で相手の名前を呼ぶ。
その愛らしい一撃は、秋山の胸をずきゅんと貫いた。
可愛すぎてつらいとは、まさにこのことである。
しかもよりによって、狙ったかのように苗字ではなく名前を呼ぶのだ。
それが寝言である以上、二人の間にある約束事がそこに適応されないことは重々承知しているが、この際そんなことはどうでもいい。
世界一可愛い恋人が、腕の中で秋山の名を呼んだ。
それだけが事実だった。
そして当然のことながら、秋山は急速に湧き上がった欲望に蓋をする術を持ち合わせてはいないのだ。

「……今のは、貴女が悪いですよ」

責任の所在を明確にした上で、秋山はベッドから上体を起こすとナマエの肩を押して仰向けに寝かせ、その上に覆い被さった。
シーツに両手をつけて囲い、真上からナマエの唇を塞ぐ。
そのまま強引に舌を捩じ込むと、流石のナマエも睡眠の中から抜け出した。
目が覚めた瞬間にはもう咥内に他人の舌を突っ込まれている状態だったナマエの身体は、覚醒と同時にびくりと跳ねる。
秋山が瞼を持ち上げてその表情を盗み見ると、ナマエは思い切り目を見開いていた。

「ん、んんーーっ」

薄いコンフォーター越しに背中を叩かれ、秋山はナマエの唇を解放する。
途端にナマエが乱れた呼気を溢れさせた。

「おはようございます、ナマエさん」

両腕に力を入れてナマエの顔を見下ろしたまま笑みを浮かべれば、ナマエが分かりやすく驚いた表情を浮かべる。

「……なに、してんの……」

寝起きの僅かに掠れた声がどうにも色っぽい。
主に下半身が困ったことになったと、秋山は苦笑した。

「すみません。つい、」
「ついって……」

まさかキスで無理矢理起こされるなんて、ナマエも想像したことはなかったのだろう。
秋山だって今朝までそんなことをする気は全くなかったのだ。
つまり原因は、無防備に眠っていたナマエにある。

「怒ってますか?」
「……いや、別にそういうわけじゃないけど、」
「けど?」
「流石にびっくりした。危うく舌噛むところだったよ」
「はは、それは勘弁してほしいですね」

想像しただけで痛い。
だがナマエに噛まれるならそれも悪くないかと思ってしまう時点で、秋山も大概ナマエに弱かった。
それに、噛まれていれば痛みで誤魔化せたはずのものが、生憎ここに健在である。
秋山は自身の四つ這いを支える両膝を少し伸ばし、主張する欲望をナマエの太腿に押し当てた。
寝起きの頭でもそれが何であるのか即座に理解したらしいナマエが、あからさまに眉を顰める。

「……そりゃ確かに、朝だけどさ、」
「名前で呼んだのはナマエさんですよ」
「は?」
「氷杜って、今さっき」

我ながら理不尽な責任転嫁だと、秋山は内心で笑った。
流石のナマエも寝言にまで責任は持てないだろうし、そもそも自覚すらしていないだろうに。

「……全く身に覚えがないんだけど?」

案の定、ナマエが訝しげに首を傾げた。
だがそれすら、秋山を喜ばせるのだ。
あれが本当に、無防備な寝言だったと分かってしまったから。
秋山がナマエの寝言を聞いたのは、これが初めてだった。
一般的にはきっと些細で日常的な出来事が、堪らなく嬉しい。

「せっかく呼んでくれたのに……」

わざとらしく落ち込んだ声音で訴えながら眉を下げれば、ナマエの拳が容赦なく秋山の脇腹を殴った。

「いっ、た」
「その手には乗らないんだからね、馬鹿」

残念な気持ちがないと言えば、嘘になる。
だが、不満げに唇を尖らせたナマエが可愛くて、結局胸の内には幸福感が広がった。
秋山は恭順の意を示すべく、膝立ちになって両手を挙げる。

「まだ七時ですけど、もう少し寝ますか?」

ナマエが片手で目元を擦りながら首を横に振った。

「じゃあ、起こしてしまったお詫びはオムレツでいいですか?」
「……サラダとトーストもね」
「勿論。カフェオレも」

秋山が付け足せば、ようやくナマエが笑ってくれる。
二人で過ごす幸せな一日の始まりに相応しい、柔らかな朝だった。





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