戯言と睦言、そして秘め事[1]
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そのバーは、外観だけなら何度も目にしていたが、店内に入るのは初めてのことだった。
イーゼルに立て掛けられたブラックボードに、メニュースタンド。
HOMRAと書かれた看板を見上げ、本当に飲食店なのだな、とナマエは今更なことを思った。
セプター4の人間にとってこの店は、赤のクランの属領、という認識ばかりが強すぎる。
実際それは正しいのだが、HOMRAが持つバーとしての一面を、これまではあまり意識したことがなかった。
しかし恐らく、彼女にとっては違うのだろう。
白いコートに身を包んだ淡島が、何の躊躇いもなく店のドアを開けた。
からん、と鳴ったドアベル。
ナマエは淡島の後に続いて店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃい、世理ちゃん。ーー っと、……今日はお連れさんもおるんやね」

バーカウンターの内側で、ナマエの姿に気付いた吠舞羅の参謀が僅かに驚いた様子を見せる。

「こんばんは。すみません、お邪魔になるから遠慮しようと思ったんですけど」

ナマエは、予め決めておいた台詞を違うことなく口にした。
そして、申し訳なさそうな苦笑を添える。
草薙出雲が目を丸くし、淡島がすかさずナマエの脇腹をハンドバッグで小突いた。

「ははっ、なんや、美人なお客さんや思たのに早速振られてもうたわ」
「草薙君!」

すかさずナマエに調子を合わせた草薙の軽口に、淡島が咎めるような声を出す。
ナマエは、概ね狙い通りの空気感が出来上がったことに満足した。
淡島がまったく貴方達は、と小言を零しながらコートを脱いでカウンターのスツールに腰掛ける。
ナマエも黒のコートを脱ぎ、その隣に腰を下ろした。

「世理ちゃんはいつものやな。ナマエちゃんはどないしはる?」

少し屈み、恐らくカウンターの下にある冷蔵庫の中からタッパーを取り出した草薙を見て、その中身に見当がついてしまい内心げっそりしていたナマエは、呼びかけに目を瞬かせる。

「ああ、堪忍な。俺が勝手にそう呼んでましてん。お気に召さんようやったら改めますわ」
「いえ、それで構いません。ただちょっと、耳馴染みがなかったので驚いただけです」

事実だった。
決して不快だったわけではなく、単純に、名前にちゃん付けなどという可愛らしい呼び方が擽ったく感じられただけだ。

「ヘネシーをダブルで」
「ストレート?」
「ええ」

ナマエの注文に、草薙が若干安堵した様子を見せた。
それが面白くて、ついナマエは笑ってしまう。
草薙がばつの悪そうな笑みを浮かべ、それらの意味を理解した淡島が眉を吊り上げた。

「なによ、美味しいのに」

拗ねたような口振りが可愛い。
それでも、共に飲む夜を何度か重ねてナマエが酒の中にあんこを入れることは絶対にないと最近になってようやく理解したらしい淡島が、それを勧めてくることはもうなかった。

「こないだおたくの室長さんにも飲ませたけど、苦虫噛み潰したみたいな顔してはったで」

気味の悪い色をしたカクテルグラスの中身をマドラーで掻き混ぜながら、草薙が言う。
淡島は眉を顰め、ナマエはとうとう噴き出してしまった。
宗像がこのあんこカクテルを飲んだのかと思うと、可笑しくて仕方ない。
あの宗像にどうやって飲ませたのか、ナマエは草薙の手腕を内心で褒め称えた。

「おまっとうさん」

ナマエの前にブランデーグラスが、淡島の前に"世理ちゃんスペシャル"が置かれる。
ナマエと淡島は短く礼を伝え、それぞれのグラスを手に取った。

「「乾杯」」

グラスを軽く合わせてから、ナマエはヘネシーを口に含む。
その滑らかな舌触りに満足し、グラスを両手で包み込んだ。


共に早番で仕事を終えた今日、HOMRAにナマエを誘ったのは淡島だった。
聞けば、本当は先週顔を出そうと思っていたのだが、急遽出動が掛かって予定は先送りになっていたのだと言う。
それならば尚更とナマエは遠慮したのだが、淡島に強引に押し切られてしまった。
逢瀬を邪魔するつもりはないが、確かに一度足を運んでみるのも悪くない。
そう結論付け、ナマエは退勤後に淡島と屯所を後にした。

草薙出雲という男は、なるほど淡島が認めるだけあり、なかなかに好印象である。
実は、ナマエが草薙と直接言葉を交わすのはこれが初めてのことだった。
現場では何度も顔を合わせているし、相手が最も関わりの深いクランの幹部である以上、パーソナルデータは一通り把握している。
出来ればあまり関わりたくないと思っていたが、いざ会話をしてみれば、意外と相性は悪くなさそうな気がした。


「そちらさんも少しは落ち着いたん?」
「ええ、そうね。少なくとも、シフト表は本来の役割を果たすようになったかしら」

草薙と淡島の会話に、ナマエは黙って耳を傾ける。

「後始末、押し付けてもうて堪忍な」
「それが仕事よ、謝罪は必要ないわ」

随分と色気のない会話だった。
もし二人きりであれば、少しは違うのだろうか。
堅物の淡島はともかく、草薙の方は手慣れているように見受けられるが、実際のところはどうなのだろう。
正直に言うとさして興味はないのだが、思惟の片隅で下世話な想像をするのもたまには悪くなかった。

「ナマエちゃんも、おおきに」
「何がです?」
「うちの子ぉらに色々気ぃ配ってくれはったやろ。あいつら、随分懐いとったわ」

もし草薙が純真無垢な人間であれば、ナマエは多少の心苦しさを覚えたかもしれない。
生憎とナマエは、あくまで作戦成功のためにしか動いていなかった。
しかし草薙が社交辞令として言葉を並べているのが分かるので、ナマエもそれを受け取ることに否やはない。

「いえ。よく働いてくれる気の良い少年たちでしたよ」

嘘ではなかった。
事実、共同戦線を張ったあの数日間、セプター4の人間は少しばかり楽が出来たのだ。
血気盛んな若者は、シンプルな戦力としてとても頼もしかった。

「躾がなってへんから心配しとったんやけど、あんたにとっては仔犬みたいなもんやったかな」
「ふふ、まさかそんな」

奇妙な腹の探り合いだと、ナマエは苦笑する。
なるほど確かに、秋山の、ナマエと草薙が似ているという発言は正しかった。
互いにフィールドが同じなので、どうにも主導権を握りづらい。
しかし、決して嫌な気分ではなかった。
本気で相手をやり込めようという気も起きない。
恐らく互いに、この状況を愉しんでいた。

「犬と言えば、ナマエちゃんの番犬は随分とおっかないんやね」

ふと会話に混ぜられた揶揄に、ナマエは目を細める。
予想通りではあるが、分かっていたからと言って躱せるものでもなかった。
こればかりは、完全にナマエの弱点だ。
勿論、そうでないかのように振る舞うことも可能ではあったが、敢えてその必要性を感じなかったナマエは素直に白旗を掲げることにした。

「うちの秋山が何か失礼をしましたか?」

草薙にとって、ナマエが躊躇なく認めることは意外だったのだろう。
仕掛けた本人が驚いた様子を見せるので、ナマエは静かに窃笑した。

「なんや、薮蛇やったんかいな」
「必要であれば惚気ますよ?」

互いに、大仰な台詞を応酬する。
やがてその不毛さが可笑しくなり、同時に笑った。

「堪忍な。ほんま、おおきに」
「こちらこそ、ありがとうございました」

喉を鳴らしたまま、カウンター越しに差し出された手を握る。
握手を交わす二人を横目に、淡島が呆れたような溜息を吐き出した。



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