最大幸福数[1]
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R-18






秋山は微睡みの中にいた。
時刻はまだ夜の七時を過ぎた頃で、本格的な眠りの中に意識を落とすには些か早い。
この時に秋山が時間を認識していれば、彼自身もそう感じただろう。
だが当然寮の室内には一時間毎に音楽を奏でる時計などなく、早番の後に食事を済ませて二段ベッドの上段に身を沈めた秋山は時間の感覚など失くし、手足の先まで広がる疲労感に任せるがままだった。
意識の片隅で、寝る前に風呂に入らなければ、と理性が訴えかけている。
しかしながら、柔らかいとは言い難くとも背中の下にあるのは紛うことなき布団であり、仕事中であれば強固な秋山の理性も眠気に抗うほどの勢力足り得なかった。
風呂は明日の朝にしてこのまま眠ってしまおうかと、秋山は怠惰に身を任せる。
そのまま意識が完全に落ちる直前、例え眠気が酷くとも無視出来ない音が鼓膜を揺らした。
老朽化して建て付けの悪いドアの開く音に、流石の秋山も反応せざるを得ない。

「……べんざい?おかえり……」

秋山は起き上がることも部屋の入口を見やることもせず、一瞬遠退きかけた眠気を逃すまいと枕に頬を擦り付けながら声を掛けた。
本日遅番だった同僚の退勤を労うべく絞り出した言葉の滑舌は甘く、声量も殆どない。
長年バディを組んできた兄弟のような戦友だ、今更気を遣う必要もなければ取り繕う必要もなかった。
しかし、本来であれば短く、ただいま、と返されるはずの言葉がいつまで経っても聞こえないことに、秋山はぼんやりとした頭の中で小さく疑問符を浮かべる。
何かあったのか、と同じ体勢のまま再び軽く息を吸い込んだ秋山の口は、しかし脳裏に浮かべた台詞を発するには至らなかった。

「ーー ただいま、秋山」

時間差で寄越された返事の、その内容は全くもって秋山の予想通り。
しかしその声は想定していた音からは程遠かった。
急激に、まるで強制的にスイッチをオフからオンに切り替えられたかのように、一瞬で秋山の脳を電気信号が駆け巡る。
刹那、秋山は飛び起きた。
もし秋山の座高がもう数センチ高ければ、間違いなく天井に頭を強打していただろう。
弾かれたように二段ベッドの柵に手を掛けて見下ろした先、閉められたドアを背凭れにして、腕を組み面白そうに口角を上げたナマエが立っていた。
血の気が引くとは、まさにこのことである。
十秒前まで全身を支配していた眠気も疲労感も跡形なく吹き飛び、秋山は驚きと焦りに冷や汗を滲ませる。

「おっ、おつかれさま、です!」

元上官に対する無礼を挽回するべく発したはずの言葉は、縺れた舌のせいで盛大に吃った。

なんで、どうして、ナマエさんがここに。

基本的に、秋山がナマエの一人部屋である女子寮を訪ねることが常であり、ナマエが秋山と弁財の部屋に足を運ぶことは滅多にない。
制服を着用したままということは、何か急用だろうか。
今度は焦りのせいで上手く機能しなくなった脳を何とか動かしようやくそこまで思考を巡らせたところで、秋山は己がナマエをベッドの上から見下ろしていることに気が付いた。
その角度は、普段の身長差とは比べ物にならない。
心から尊敬する人を文字通り高所から、しかも座ったまま見下ろすという、礼に欠いたことをしているのだ。

「す、みませんっ、すぐ降ります!」

秋山は慌てて膝を立てて腰を浮かし、二段ベッドの転落防止柵に手を掛けてそのまま飛び降りようとした。

「馬鹿、やめなさい。普通に降りていいから」
「え、あ、はい」

屈んでブーツを脱ぐ途中だったナマエが、僅かに声を張って秋山を制止する。
秋山は言われた通り、四つ這いでベッドの上を移動して備え付けの梯子に足を掛けた。
国防軍時代に飽きるほど繰り返した、緊急脱出訓練さながらの俊敏さで梯子を降りる。
制服姿のナマエと正面から相対した秋山は、今更何をどう取り繕っても手遅れとは知りつつも、居心地の悪さを誤魔化すかのように着ていたTシャツの裾を引っ張って皺を伸ばした。
ブーツを脱ぎ終えたナマエが、制服の上着から腕を抜く。
どうやら、仕事に関する急用ではないらしい。

「あの、何かありましたか?」

適当に畳んだ上着を床に放り、そのままベッドの支柱に凭れて座り込んだナマエに倣って隣に腰を下ろしながら、秋山はおずおずと問うた。

「うんにゃ、別に何も。さっき上がって、ちょっと寄ってみただけ」

簡潔に答えたナマエに、秋山は首を傾げる。
確かナマエは今日、中番だったはずだ。
ローテーブルの上に放置していたタンマツを引き寄せて画面を確認し、秋山はようやく今がまだ七時過ぎであることを知った。
遅番の弁財が退勤するまで、まだ後三時間もある。

「そう、ですか。すみません、勘違いしてしまって」

そもそも秋山は、時刻など全く意識していなかった。
この部屋に入ってくる自分以外の人間イコール弁財という、刷り込みの結果だ。

「いいよ、そんなの」
「……怒って、ないですか?」
「あのねえ、秋山。君の中の私はそんなに短気なの?」

恐る恐る盗み見たナマエの表情に、呆れの色が浮かぶ。
秋山は、とんでもないと首を激しく横に振った。
ナマエは決して気が短くない。
言葉にすると難しいが、温厚というわけでもなく、敢えて言うならば達観しているのだろうか。
何にせよ人とは異なる造りの導火線になっていて、滅多なことでは分かりやすく怒ったりしない人である。
だが、そういう問題ではないのだ。
単純に、敬愛する人を、そして恋人を、他人と間違えたことが申し訳ない。

「面白かったからいいよ。どんな反応するかなあって思ってたけど、想像以上だった」

恐らくそれは、ナマエの本心だろう。
ナマエは秋山を揶揄してその反応を見ることに楽しみを見出している節がある。
ちらりと隣を窺えば、確かにナマエはどこか機嫌が良さそうだった。
秋山の過剰な反応が面白かったからなのか、それとも何か別の理由なのか。
何にせよ、先程の失態について気にしなくて良いということを理解した秋山は、ほっと長めに息を吐き出した。
相変わらず、心臓に悪い人である。
だけれどもそれが一欠片も嫌だと思えないのだから、恋慕とは厄介だ。
落ち着いてくれば、そんな悪戯な行動が可愛く思えてきて始末に負えない。

「もう、貴女という人は、」

さらに言えば、秋山は嬉しかった。
その動機が何であれ、ナマエがわざわざ秋山の部屋を訪ねてくれたのだ。
端的に言えば、会いに来てくれたのだ。
恋人に、特に普段あまり積極的に甘えてはくれない相手にそんなことをされて、喜ばない男はいないだろう。
悪戯に笑いながら髪を纏めたヘアクリップを外したナマエを見て、秋山は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
長い黒髪がブラウスの肩を滑り落ち、ふわりと、馴染んだシャンプーの香りが鼻腔を擽る。
甘すぎず、だが女性らしい柔らかな匂いに、秋山は容易く欲情した。
何せ、ここ数日忙しい日が続いたせいでご無沙汰なのだ。
そうでなくとも秋山のナマエに対する欲望は底なしだというのに、間隔が空いてしまえば求める気持ちは加速する一方だった。

さてどうしたものかと、秋山は思考の圧力を上げる。
先程まで睡魔に負けて碌に働きもしなかったくせに現金なものだと自嘲する己を意識の隅に追いやって、秋山はナマエの様子を窺った。
やはり、機嫌は悪くなさそうである。
最近秋山は、ナマエがそういう気分か否かを何となく察することが出来るようになってきていた。
それはもしかしたら、時に秋山の勘違いなのかもしれない。
だが、抱かせてもらって良いのか全く分からずに右往左往し、名前を呼んだら可なんてルールを設けてもらわなければ触れられなかった臆病さからは脱却出来たような気がしていた。
無論今でもそのルールは健在だが、それは少しずつ形骸化し、ここ最近では睦言の一種に近いかもしれない。
当初は、誘って断られるのが怖いと怯えた秋山のための誘い文句だったそれは、今では誘った秋山への応となった。
身体を重ねるようになって、一年。
お互いへの理解、自らとの違いに対する認識、そしてその差を埋めるための歩み寄り。
付き合い始めた頃はまるで噛み合わない凸凹だった二人は、いつの間にか少しずつその凹凸を調整して相手にぴたりと嵌めることが出来るようになってきていた。
そう感じるのは、秋山の自惚れだろうか。

「ナマエさん」

身体ごとナマエに向き直り、ん、と反応したナマエの顎を掬い上げて唇を重ねる。
軽く触れるだけの口付けを解いてナマエの双眸を覗き込めば、眼睛の奥、見紛うはずのない揺らめきを見つけた。

ああほら、やっぱり。

秋山は、己の感覚が正しかったことを噛み締める。
事件に忙殺されたこの数日で、ちゃんとナマエも秋山のことを求めてくれていた。
突然訪ねて秋山の反応を愉しみたかったのは事実でも、その先に、恋人との密事を期待する心がある。
ナマエに望まれる、求められる、それは秋山にとって至上の悦びだ。

「やっと触れられた……」

無意識のうちに零れた声は早くも熱に浮かされ、若干掠れていた。
秋山はナマエの頬を両手の指で包み込み、至近距離で目を見交わす。
そのまま、濡れた唇に今度は深く口付けた。




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