敗者の幸福
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タンマツを確認すれば、約束の時間まではまだ三十分以上もあった。
どう考えても早く着きすぎたと、秋山は苦笑を零す。
さて、どうしたものか。
秋山は立ち止まり、駅前の人波に視線を巡らせた。
暦の上では秋に差し掛かったとはいえ、九月の夕方は未だ蒸し暑い夏の気配を色濃く残している。
どこか店の中で涼みながら待とうかと辺りを見渡し、一軒のコーヒーショップに目をつけた。
駅のすぐ側にある、有名なチェーン店だ。
ここならば分かりやすいだろうと、秋山は交差点を渡った。
勤務明けに着替えだけ済ませてすぐ屯所を後にしたので、丁度喉も渇いている。
店の自動ドアを潜り抜ければ、湿気による不快感がするりと消え去った。

カウンターでアイスコーヒーを注文し、二人掛けのテーブル席に腰を下ろす。
客の入りは八割程度だった。
夕方という時間帯のせいか、サラリーマンよりも学生や女性客の姿が目につく。
秋山はストローでコーヒーを一口啜ってから、タンマツを取り出した。
ナマエに駅前のコーヒーショップで待っていることを告げ、返信を見逃さないようタンマツをテーブルに置く。
自身の浮かれ具合を誤魔化すべく、再び苦いコーヒーで舌を濡らした。

非番のナマエから夕食に誘われたのは、今朝のことだ。
用事が夕方までに終わるから外で食事をしないかと提案され、今日が早番の秋山は一も二もなく頷いた。
ちなみにナマエの用事とは、父への誕生日プレゼントを選ぶことだそうだ。
ナマエの両親は共に健在だが、実際に血が繋がっているのは父親の方だけで、母親は再婚相手だという。
秋山はそれを、ナマエの義兄から聞いて知った。
両親は神奈川に、義兄夫婦は福岡に、そしてナマエは東京にと、それぞれ離れて生活している。
仕事の多忙さ故か直接顔を合わせることは滅多にないらしいが、家族四人、関係は良好だそうだ。
親に頼ることも甘えることもなく、相談どころか自身の話さえ滅多にしないというナマエだが、毎年必ず誕生日プレゼントは用意している。
秋山がそれを初めて知った時、その律儀さを少し意外に感じたものだった。
大仰な表現にはなるが、感銘を受けたと言ってもいい。
実際秋山はそれ以来、自らも両親に誕生日プレゼントを贈るようになったのだ。

ぼんやりとタンマツの黒い液晶を眺めていると、不意に左の肩を背後から軽く叩かれた。
気配に全く気付いていなかった秋山は驚き、反射的に首を捻って振り返る。
そこには、私服姿のナマエが立っていた。

「ナマエさん!ーー驚かせないで下さいよ」

容易に背後を取られたことを悔やみつつ、秋山は苦笑する。
黒いフレア生地のオールインワンを身に纏ったナマエが、ワイドシルエットのパンツをはためかせてテーブルを回り、秋山の向かいに腰掛けた。

「早かったですね。時間までまだあと三十分近くあるのに」

椅子に座って脚を組んだナマエが、身を乗り出すようにしてテーブルに腕を乗せる。
その顔に、ふわり、と笑みが浮かんだ。

「秋山に早く会いたくて」

柔らかな笑顔に心臓を高鳴らせた秋山は、次いで唇から零された直截的な台詞に硬直する。
数秒間、呼吸すら止まった。
頭の中でエコーが掛かったかのように、ナマエの言葉が何度も再生される。
信じがたい一言だった。
鏡など、見る必要もない。
秋山は、自身の顔が真っ赤に染まっていることを自覚していた。

かつて、ナマエにこんな言葉を掛けられたことがあっただろうか。
答えは否だ。
早く会いたかっただなんて、言われたことも、また言われると思ったこともなかった。
非番の今日、ナマエは秋山に会いたいと思ってくれていたのだろうか。
早番のシフトが終わる時間になったことを確認し、早めに椿門まで戻って来てくれたのだろうか。

「嬉しい?」

最早何と返せばいいのかも分からず、唇を無駄に開閉させて言葉を探していた秋山は、ナマエに問われ素直に頷いた。
当たり前だ、嬉しくないはずがない。
すると、ナマエの笑みが柔和なそれから一転、何か含みのあるものへと変化した。

「今の、彼女に言われて嬉しい台詞ランキングの上位に入ってた」
「…………はい?」

全く想定していなかったナマエの言葉に、秋山の脳内が疑問符で埋まる。
訳も分からず聞き返せば、ナマエが何でもないことのように解説をくれた。

「今日、お昼を食べた店のテレビでたまたまやってて。ちょっと試してみたくなった」

あまりにも淡白なネタばらしに、開いた口が塞がらない。
つまるところ先程の「早く会いたくて」は、テレビでオンエアされていた番組内に出てきた台詞だった、というわけだ。
彼女に言われて嬉しい台詞というお題のランキング上位に入っていた台詞を実際に言ったらどうなるのか、秋山で試してみたらしい。
悪怯れもなく説明され、秋山は先程とは異なる意味で激しい羞恥に襲われた。
何の疑いもなく信じて舞い上がった自分が、あまりにも惨めで馬鹿みたいだ。
思わず、正面のナマエにじと目を向けてしまう。
ナマエならばわざわざ試さずとも、秋山がどのように感じるかなど充分に理解していただろうに。
こんな弄び方はあんまりだ。

普通の男なら、なんだよそれ、と恋人を小突いて笑うところなのかもしれない。
ナマエにとってはきっと、他愛のない遊び心だ。
少なくとも、真面目に受け止めて消沈するところではないのだろう。
そう分かっていても、一度舞い上がった秋山の心はその反動で深く沈んだ。
ナマエに関することのみ、秋山の精神は繊細に出来ている。
こんな冗談に本気で落ち込むほど、ナマエの言動に振り回されるのだ。
でも、だからと言ってナマエを非難することはない。
恐らく、人はこれを惚れた弱みと呼ぶのだろう。
愉しげに笑うナマエの顔を見れば、文句など言えるはずもない。
これまでも、そしてこれからも、相手がナマエであるというだけで秋山は全てを許してしまうのだ。

恋愛は先に惚れた方が負けとはよく言ったものである。
ナマエはある意味、秋山を気落ちさせる天才だった。

「怒んないでよ、氷杜。別に嘘はついてないんだからさ」
「……え……っ?」

そして同時に、秋山を喜ばせる天才でもあるのだ。

「……貴女は狡いですね、本当に」

だから一生、ナマエには敵わない。






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