君と護りたい世界の全て[9]
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その後も兄弟二人で静かに酒を酌み交わし、大司が限界を訴えたところで酒盛りは終わった。
宗像は眠るナマエを横抱きにして二階に上がり、客間の襖を足で開ける。
そこにはすでに布団が敷かれており、宗像は胸中で母の気遣いに感謝しながらナマエを寝かせた。
客間の隣が宗像の自室だが、わざわざ別々の部屋で眠る必要などどこにもない。
ナマエを一人にする時間を作るのは憚られ、宗像は着替えることもせず同じ布団に潜り込んだ。

橙の常夜灯が、ぼんやりとナマエの顔に陰影を作る。
寝顔を見ることなど珍しくはないが、共にいた期間の長さから考えると、意外とその時間は多くない。
ナマエが大抵の場合は掛け布団の中に頭の天辺まで潜り込み、芋虫のように丸まって眠るからだ。
いつも息苦しくはないのかと案じてしまうのだが、ナマエにはその圧迫感が丁度良いらしい。
だからこんな風に同じ布団の中で寝顔を眺める時間は、宗像にとって貴重だった。
薄っすらと開いた、小振りな唇。
伏せられた瞼を縁取る睫毛は長く、頬に微かな影を落としている。
無防備に投げ出されたナマエの右手が何かを探すように動いたので、宗像はすかさずその手を絡め取った。
起こさない程度に軽く握りしめ、親指の腹で手の甲を撫でる。
するとナマエが安心したように頬を緩めるので、宗像はそっと微笑を零した。
いつだって、ナマエは宗像を無自覚なままに振り回す。
この休暇で、宗像は改めてナマエという存在の大きさを実感した。
仕事でもなく、かといって日常でもない特殊な時間。
そこにナマエがいるというだけで宗像の感情は容易に揺れ動き、そして見るもの全てに鮮やかな色がつく。
全てを俯瞰し、自身が世界というパズルにおけるピースの一つであることを忘れていた過去が嘘のように、等身大の宗像礼司として地に足をつけて立っていられる。
繋ぎ止めてくれるのはナマエなのだということを、宗像はよくよく理解していた。

「……ナマエ……」

唇を殆ど動かさないまま、口の中で呟いた名前。
四番という個体識別番号しか持たなかったナマエに、名を与えたのは宗像だった。
それは仮初めの名でもなければ、渾名でもない。
正真正銘、ナマエの本名になった。
名付けた日から五年、果たして宗像は何度この名を呼んだだろうか。
生涯で最も多く口にする名であることは、最早疑いようもなかった。

不意に、宗像の手の中でナマエの指先がぴくりと跳ねる。
おや、と見下ろした先、スローモーションのようにゆっくりとナマエの瞼が持ち上がりその下から黒い双眸が覗いた。

「起こしてしまいましたか?」
「………れい、し、さん……?」

ぱたぱたと二度瞬いてから、ナマエの瞳が宗像に焦点を結ぶ。

「……大司さん、は……?」
「晩酌は終わりましたよ。ここは二階の客間です」

寝起きで状況を把握出来ていないナマエにそう説明すれば、そっか、と小さな返事があった。
安心させるよう、繋いだ手に力を込める。

「随分頑張って食べてくれましたが、気分は大丈夫ですか?喉が渇いていたりは?」

その問いに、ナマエは無言のまま首を横に振った。
それならば良かったと、宗像は微笑む。

「今夜はこのまま泊まっていきましょう。気兼ねなく、ゆっくり寝て構いませんよ」
「……れーしさん、も、ここで寝る?」

細い指先が宗像の手を握り返してきたので、思わず笑みが深くなった。

「ええ、勿論です」

一人になどしない、と言い切れば、ほっとしたようにナマエも目元を緩める。
宗像は体勢を変え、ナマエを胸元に抱き込む形で横になった。

「……ねえ、ナマエ」
「ん……?なん、ですか……?」

思わず名を呼べば、眠気を滲ませた声音ながらもきちんと続きを促される。
たった、それだけのことだ。
だが、宗像にはそれが嬉しい。
話を聞こうとしてくれる、興味を持ってくれる、言葉を待っていてくれる。
ただ一人の人間として、宗像を求めてくれる人がいる。
当たり前のようで、そうではない。
それは尊いことだった。

「この二日間、本当に楽しかったです。君が私のために考えてくれたことも、一緒にいてくれたことも、何もかもが嬉しかった。ありがとうございました」

ナマエの頭を抱き込んだまま、その天辺に唇を寄せて言葉を並べる。
紛うことなき本心だった。
返事がないのは恐らく、何と返せば良いのか悩んでいるからなのだろう。
それとも、もしかしたら照れているのだろうか。
顔が見られないことを少し残念に思っていると、小さく、シャツの裾を握られる感覚。

「………たし、も……」
「え?」
「……私も、楽しかった、です」

殆ど音にならない声で返された言葉に虚を衝かれ、宗像は硬直した。
精々相槌を打たれるだけだろうと思っていたのに、予想外の答酬だ。
かつてナマエの口から、楽しい、なんて言葉を聞いたことがあっただろうか。
今朝、宗像は胸の内でナマエに問うた。
川で遊ぶナマエを見つめながら、楽しいか、と。
面と向かって本人に訊ねたわけではないから、当然返事はなかった。
その答えを今、返された気がした。
ナマエが何を指して楽しかったと言ったのか、正確には分からない。
だがそれでもナマエは、宗像の問いを肯定してくれたのだ。

「……そうですか……」

普段の、常人ではあり得ないような回転をする脳の機能はどこに失われたのだろうか。
宗像は不器用に辛うじてそれだけを言葉にすると、ナマエを抱く腕に力を込めた。
嬉しかった。
ナマエが何かを楽しいと感じてくれることが、宗像の胸にこんなにも喜悦を齎すのだと初めて知った。
それが宗像と共にいる時間の出来事であるならば、尚更。

「また、一緒に出掛けましょうね、ナマエ」

何度でも聞きたい。
もっと笑ってほしい。
十七年分を取り戻すことは出来ずとも、せめてこれからは、宗像の傍で楽しいことをたくさん経験してほしい。
うん、と小さく頷いたナマエに、抱えきれないほどの幸せを与えたい。
それはそのまま、宗像の幸福だ。

今度は自分が旅行の計画を立てよう、と宗像は考える。
ナマエが喜びそうなことを、楽しめそうなことを詰め込んだ二人旅だ。
もっと、ナマエの知らない世界を見せてあげよう。
そしてそれは宗像にとっても、ナマエが傍にいることで初めて色付く、新しい世界になる。

「……れーし、さん……」
「ふふ、眠そうですね。起こしてしまってすみません」

口調が先程よりもさらにあやふやとなってきたことを悟り、宗像はナマエの頭を優しく撫でた。

「ゆっくり眠って下さい」
「……ん……」

小さな身体、小さな温もり。
宗像礼司を守り続けてくれた、たった一つの命。

「おやすみなさい、ナマエ」

そんなナマエが生きるこの地に安寧を齎すことが、宗像の使命だ。
腕の中で眠るナマエの見る夢が、どうか幸福なものであるように、と。
祈りながら、宗像はゆっくりと瞼を下ろした。






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