君と護りたい世界の全て[5]
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翌日、夕食同様に部屋で豪勢な朝食を済ませ、今度は部屋付きの露天風呂でゆっくり寛いでから、二人で宿をチェックアウトした。
ナマエから昨夜、通常時間制で貸し切る露天風呂を旅館側の厚意で一晩宗像とナマエだけの貸切にして貰ったのだと聞いていたので、女将にその礼も伝えた。
小柄な女将は、電話を掛けてきたナマエがあまりにも熱心で健気だったから特別だったのだと柔らかく笑った。

「……また、来てもいい、ですか?」

宿を後にする間際、ナマエが躊躇いがちに口を開く。
それは宗像に向けられた言葉ではなく、見送りをしてくれる女将への問いだった。

「いつでも、お帰りをお待ちしております」

選ばれた言葉を、嬉しく思う。
一度目を瞬かせ、やがて頬を緩め笑ったナマエを見て、宗像もまた微笑んだ。
丁寧な一礼に送り出され、清々しい空気の中に一歩を踏み出す。
昨日に引き続き、空は晴れ渡っていた。
旅行二日目もまた特にタイムスケジュールは定められていないとナマエが言うので、散歩のような感覚でゆっくりと山道を下る。
昨日とは異なり、遠回りにはなるが傾斜が緩やかなルートを選んだ。
風で擦れる葉音や鳥の鳴き声を聞くともなしに聞きながら歩いていると、不意にナマエが立ち止まる。

「どうしました?」
「……水………川……?」

独り言のように単語を呟いて周囲を見渡すナマエに遅れること数秒、宗像も鼓膜を揺らす水音に気付いた。
川のせせらぎだ。

「そうみたいですね。行ってみますか?」

数メートル先に、本道から枝分かれしている小道が見える。
宗像の提案に、ナマエが小さく首肯した。
アスファルトの道路から外れ、舗装されていない土を踏み締める。
木の葉で影が出来るため、森の中は涼しかった。
靴の下で枯れ葉が潰れ小枝が折れる音はナマエにとって新鮮なようで、不思議そうに足下を見ながら歩いている。

「ほら、ナマエ。見えてきましたよ」

そんなナマエに、宗像は声を掛けて顔を上げるよう促した。
前方に、音の正体が見える。

「……わ、ほんとだ。……すごい、浅くて小さい」

大小様々な岩の隙間を縫うように走る川は、ナマエの言う通り浅く小さかった。
見渡す限り、この辺りの水深は平均で二、三十センチメートル、幅は一メートルにも満たない程度だ。
都内にある、コンクリートの壁に隔てられた河川ばかりを見てきたナマエにとっては、意外な姿として目に映るのだろう。
川縁にしゃがみ込んだ体勢のまま、ナマエが首を捻って宗像を見上げる。

「……これ、触ってもいいやつ、ですか?」
「ええ、勿論です」

宗像が頷くと、ナマエは恐る恐るといった様子で右手の人差し指を水面にちょん、とつけた。
その間は一秒足らず、まるで熱い薬缶に触れて反射的に手を引っ込めるような勢いである。
おっかなびっくり、という言葉が脳裏を過ぎり、宗像は思わず小さく吹き出した。

「大丈夫ですよ、ナマエ。ほら、支えていますから」

ナマエが具体的に何を恐れたのか、宗像には分からない。
今さら水というもの自体に怯えたわけではないだろうし、まさか熱湯が流れているとも思ってはいないだろう。
とりあえず、自分が側にいるから大丈夫だという意味を込め、宗像はナマエの背後に回ってその身体を軽く抱き締めた。
少なくともこれで、落ちる心配はない。
二、三十センチメートルの深さなのだから落ちたところで問題はないのだが、こういうことはきっと気の持ちようだろう。
宗像の腕の中で小さく頷いたナマエが、再び川面に手を伸ばした。
指先を水につけ、やがて手首辺りまで沈めていく。

「……冷たい……きもちい……」

小川の水は清冽と透き通っており、底の小さな石まで視認出来た。

「初めて、」
「ええ、そうですね」

都会のど真ん中で生活していて、川の水に触れる機会はなかなかない。
ナマエにとっては、正真正銘これが初めてだった。

「入ってみますか?」

ふと思い立ち、宗像は川遊びを提案してみる。
水流は穏やかで、見る限り川底にガラス片のような危険物もない。
少し入ってみるには丁度良いだろう。
え、と固まったナマエは、しかし好奇心に負けたのかやがておずおずと頷いた。

「服はそのままで大丈夫ですから、靴と靴下を脱いで下さい」

大きめの岩に座ったナマエが、宗像の言った通り裸足になる。
宗像は川縁に立つとナマエの手を握った。
その手を支えに、ナマエがゆっくりと身体の向きを変えて足を水の中に入れる。
やがて川底に両足をつけたナマエが、慎重に立ち上がった。

「いかがですか?」

膝の下までという限られた範囲だが、初めて水流に身体を晒したナマエは不思議なものを見るような目で川の上流を注視している。
川の流れに逆らうよう、ナマエが宗像の手を握ったまま一歩踏み出した。
宗像も、ナマエと同じペースで川縁を歩く。
小さな歩幅で進むナマエの表情は最初こそ強張っていたものの、やがて少しずつ楽しそうに頬が緩んだ。

「あ、魚!」

不意に、ナマエの手が宗像の手の中から擦り抜ける。
どうやら川の中に魚の姿を見つけたらしいナマエが、ぱしゃぱしゃと水飛沫を上げながら駆けて行った。
転ばないように、と注意しかけ、しかし宗像は口を噤む。
結局何も言うことなく、宗像は川縁からナマエの姿を眺めた。
ナマエが水中を覗き込み、上体を屈めて手を差し込む。
当然、魚は逃げるだろう。
顔を上げたナマエは白いワンピースの裾を翻しながら、再び魚を追い掛けた。
器用なもので、あっという間に水流に慣れたらしいナマエは危なげなく川の中を跳ねるように走り回る。
その顔は、満面の笑みとまではいかなくとも、確かに笑っていた。
宗像は目を細め、ナマエの姿を見つめる。
川で水遊びに興じるナマエは、まるで子どものようだった。
たとえばナマエが生まれながらのストレインではなかったとしたら、きっと幼少期に家族と旅行に行く機会があっただろう。
そしてこんな風に川遊びをしたかもしれない。
両親に見守られ、無邪気に笑う子どもだったのかもしれない。

「……楽しいですか?ナマエ」

殆ど音にすることなく、唇の形だけで呟いた。
当然その問いは届かず、ナマエは両手に掬った水を撒いて遊んでいる。
本来あるべきだった子ども時代を、今少しでも楽しめているだろうか。
親子にはなれずとも、せめて宗像の傍で安心して笑ってくれているだろうか。
一片の曇りもなく、帰る場所があることを当然だと信じてくれているだろうか。

「ナマエ、」

もう一度、先程と同じように口の中で名前を呼ぶ。
今度もまた、ナマエには届かないはずだった。
実際、振動としてナマエの鼓膜を揺らしたはずはない。
しかしその瞬間、それまで水と戯れていたナマエが不意に宗像を振り返った。

「れーしさんっ」

手を振って、当たり前のように宗像の名を呼ぶ。
その声に、その姿に、宗像の目頭が急激に熱を帯びた。
何か大きな塊が迫り上がり、胸を圧迫する。
それは愛おしさであり、切なさであり、そして圧倒的な幸福感だった。
喉が詰まって出ない声の代わりに、宗像も片手を上げて応える。
きちんと微笑み返せたかどうか自信がなかったが、幸いナマエは違和感に気付かなかったようで、再び水面に視線を落とした。

宗像が、こんな風に稚気を滲ませて遊ぶナマエの姿を見るのは初めてだった。
それもそうだろう。
忙しさに感け、ナマエを遊びに連れて行ってやったことなどないのだ。
年齢にそぐわない優秀さを頼り、仕事ばかりを任せ、大切なことを忘れていた。
これからはもっと、一緒に色々な所に行こう。
ナマエの知らない世界を、たくさん見せてあげよう。
その度に、こうして笑ってくれればいい。

タンマツで写真を何枚か撮ってから、その姿を目に焼き付けようと、宗像は声を掛けられるまでずっとナマエを見つめていた。





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