君と護りたい世界の全て[3]
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小一時間ほど歩いて辿り着いたのは、山の中腹に位置する旅館だった。
宗像はその外観を見て、ナマエが宗像の好みを最優先して選んでくれたのだと悟った。
歴史のありそうな風情ながら小綺麗で、豪奢すぎず素朴だ。
宗像は何かと誤解されがちだが、決して高級志向なわけではない。
必要とあれば金をかけることを厭いはしないが、無駄に豪華絢爛である必要はないと思っている。
ナマエの選択は、宗像の好みを的確に押さえていた。

正面の入口から中に入ると、着物を着た女性に迎えられる。
意外なことに、先に歩を進めて予約している者だと名乗ったのはナマエだった。
宿泊の予約を取ったのはナマエ自身であるため、本来それは何もおかしくないことなのだが、従業員と辿々しく言葉を交わすその後ろ姿に、宗像は不思議な感慨を覚える。
出会った頃と今とで、ナマエは大きく変化した。
昔は自ら人に話しかけるどころか、店員に何かを勧められるだけで怯えて宗像の背後に隠れていたのに。
経験はないためあくまでもイメージだが、まるで子の成長に感動する親のような気分になり、宗像は目を細めた。

「では、お部屋までご案内致しますね」

記帳を済ませ、従業員の後について歩く。
清掃の行き届いた館内は心地良い静けさに包まれており、三人分の足音だけが染み込むように空気を揺らした。
外観から予想していたよりも随分長い距離を歩いた末、案内されたのは建物の一番奥に位置する部屋だった。
格子状の引き戸を開けると三和土があり、その先の襖を開けると畳の匂いが鼻孔を擽る。
十二畳ほどの和室と、奥にはテーブルとソファの置かれた広縁、窓の外には海が見えた。
夕食は部屋に用意してもらえるとのことで、その時間を相談した後に従業員の女性が退室する。

「とても良い部屋ですね。ありがとうございます、ナマエ」

無言のまま、様子を窺うように向けられた視線の意味を正しく理解し、宗像は微笑んだ。
宗像がこの部屋を気に入ったかどうか、ナマエはそれを気にしていたのだろう。
ほっとしたように頬を緩めたナマエを見て、宗像はその頭をくしゃりと撫でた。
例えどんな旅館に連れて来られたとしても、不満など抱くはずがない。
宗像にとって重要なのは、それがナマエの自主的な行動だという点だ。
しかしその前提を抜きにしても、用意された部屋は宗像の好みを的確に突いていた。

「少し休憩しましょうか」

座布団の敷かれた和座椅子にそれぞれ腰を下ろし、先ほど淹れてもらった茶を啜る。
ナマエが、テーブルの中央に置かれた茶菓子に手を伸ばした。

「……お菓子?」
「ええ、こういう温泉旅館では定番ですね。お風呂に入ると血糖値が下がるので、先に甘いものを食べておくと良いそうですよ」

へえ、と呟いたナマエが、包装を剥がして温泉饅頭を頬張る。
小さな口で懸命に咀嚼するさまは、いつ見ても小動物の摂食を彷彿とさせた。
宗像も菓子を一つ引き寄せ、一口で全体の半分ほどを口に含む。
やはり餡子は適量が一番だな、と内心で苦笑した。

宗像は漠然と、一息ついたら温泉に入るものかと考えていたが、その予定はナマエが零した欠伸を見てすぐさま取り消すことになった。
長距離、とは言い難いが、それなりな移動疲れがあったのだろう。
電車の中では我慢して起きていたが、そろそろ限界だったらしい。
とろんと蕩けた目を擦るナマエに仮眠を取るよう促せば、ナマエは座布団を枕に畳の上で丸くなり、あっという間に眠りの中へと落ちていった。

「……お疲れ様、ありがとうございます」

セプター4の特務隊という組織に長年身を置くナマエは、過酷な状況に慣れている。
河野村事件の時や、石盤を巡ってjungleと対立していた頃など、屯所はまさに地獄絵図だった。
ナマエが不眠不休で働く姿を、宗像はもう何度も見てきている。
必要に迫られれば、疲労困憊した身体に鞭打ってでも任務を遂行することが出来ると知っている。
今だって、たとえばこれが仕事中であれば、ナマエは決して寝落ちたりしなかっただろう。
だからこそ、二人きりのこの瞬間、何の遠慮もなく甘えてくれることが嬉しいのだ。
年々緩和されてはいるものの、ナマエはその生い立ち故に警戒心が人より格段に強い。
基本的に、他者の目がある時や不慣れな場所では眠ろうとしない。
そのナマエが、自分の側では痩せ我慢をせず無防備に眠ってくれることが、宗像の胸を温める。
宗像は寝転ぶナマエの隣に腰を下ろし、手触りの良い猫っ毛を優しく梳いた。
無意識下で手に擦り寄ってくるナマエに笑みを深くし、蟀谷にそっと唇を落とす。
柔らかい、陽だまりの匂いがした。


結局ナマエは、夕飯の時間まで寝ていた。
その間、宗像は何をすることもなく、ただ傍でずっとナマエの寝顔を眺めていた。
食事の支度のために部屋を訪れた従業員の声で目を覚まし、窓の外がすっかり暗くなっていることに気付いて申し訳なさそうな表情を浮かべたナマエは恐らく、そう長い時間眠るつもりはなかったのだろう。

「よく眠れましたか?」

かけた言葉は皮肉などではなかった。
本心から、そうであればいいと願っていた。
言葉の真意をどこまで理解したのか定かではないが、こくりと頷いたナマエがまるで親に悪戯が見つかった子どものような顔をしたので、宗像の胸に熱い何かが込み上げる。
嬉しいような切ないような、複雑な感情だった。

宗像は、ナマエが十七歳の時に出会った。
法律上の線引きで言えば、当時ナマエはまだ子どもだった。
しかし、子どもらしい子どもであったかと問われれば答えは否だ。
生活力や社会適応力の欠如という点でいえば、確かに幼かったのかもしれない。
だが、そこに子ども特有の無邪気さなど欠片もなかった。
世界の全てを見限り、また見放されているのだと諦め達観するさまは、どこか宗像に似ていたのかもしれない。
我儘の一つさえ言わない、言えない少女は、求めることも求められることも知らなかった。

「好きなものだけで結構ですから、たくさん食べて下さいね」

だからもっと、甘えてほしいのだ。
子どもの頃に本来与えられるべきだった無条件の愛情と庇護を、今からでも感じてほしい。
愛されていることを、ただ生きていることが誰かの喜びになることを、知ってほしい。
今、テーブルの上に所狭しと並べられた皿に目を瞬かせるナマエは、宗像の最愛の人なのだ。
甘えて、我儘を言って、困らせてほしい。
もっと手を焼かせてほしい。
今更何も知らない子どもには戻れずとも、せめて何の疑いもなく帰る場所があることを分かってほしい。
それは五年前からずっと、宗像の腕の中にあるのだから。





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