君と護りたい世界の全て[1]
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それは梅雨が明け、いよいよ本格的な夏が始まろうとする日のことだった。

「それと、明日からの休暇についてですが、」

十数秒前までストレインへの職業斡旋について報告を述べていた淡島の、唐突に切り替わった話題に、宗像は意表を突かれた。
思わず、机上に広がる七割がた埋まったジグソーパズルから顔を上げる。

「天気予報によると全日程で晴れのようです。梅雨明けのタイミングが丁度良かったですね」

執務机の前に立つ淡島の声は先程までと何ら変わらぬもので、宗像は僅かに戸惑った。

「……君、明日から休暇でしたか?」
「いえ。私ではなく室長の休暇です」

さも当然とばかりに訂正され、はて、と首を傾げる。
休暇とは、一体何の話だろうか。
宗像は、勿論自身の勤務スケジュールを正確に把握している。
記憶と照合してみても、明日が非番だという認識はなかった。

「すみません淡島君。話が見えないのですが、それはどういうことでしょうか」

これは宗像にしては珍しくも、さっぱり訳が分からない、という状況だ。
組んだ手の上に顎を乗せて見上げた先、淡島はそんな宗像に対して更なる追い討ちとばかりに言い放った。

「明日から一泊二日で、室長には温泉旅行に行って頂きます」

温泉旅行。
宗像はそれを、まるで初めて耳にする異国の言葉か何かのように受け取った。
少なくとも、執務室で聞くのは初めてだ。

「ふむ。詳しく説明して頂けますか」

一体全体、なぜ宗像の予定が本人の与り知らぬところで勝手に決められているのか。
淡島は業務報告をする際同様に背筋を伸ばし、まるで事件の概要を説明するような口調で事の次第を語った。
曰く、セプター4の室長という肩書きを背負ってから働き詰めの宗像に休暇を取らせようと、淡島以下特務隊の面々が協力して、非番が三日間続くように業務スケジュールを調整したらしい。
明日からの三日間、室長である宗像自身が赴かなければならない会議や会談等の対外的な予定は一切なく、期限の迫った決済も全て片付いているとのことだ。
なるほど、ここ数日伏見から回される書類が常よりも多かったのは、そういうことだったのか。
宗像は微かな違和感に納得すると共に、影で一大イベントとばかりに動いてくれたのであろう部下の面々を思い浮かべて薄く笑った。

「なるほど、君たちの考えは理解しました。しかし、非番はともかくとして、温泉旅行というのは些か無理があるのではないですか?」

部下の気遣いは、素直にありがたく思う。
しかしいくら会議や書類がないとはいえ、宗像はセプター4の室長だ。
石盤の破壊から半年。
ストレイン犯罪はかつてに比べれば激減したが、それでもゼロではない。
宗像の不在中に事件が起きた場合を考慮すれば、椿門からそう離れた場所に旅行をすることは得策ではないように思えた。

「宿泊先の手配は既に済んでおります。椿門からは電車で一時間半程度、有事の際でも問題のない距離かと思います」

恐らく、宗像の反論は想定の範囲内だったのだろう。
淡島は僅かな綻びも見せずに毅然と即答した。
強烈な右ストレートを炸裂させて以来、淡島の宗像に対する姿勢はどこか強気になったように感じる。
宗像にとって、それはどこか新鮮な感覚だった。

「用意周到、というわけですね」

確かに電車で一時間半ならば、取り立てて問題にするべき距離ではないだろう。
外堀がすっかり埋められていることを知り、宗像は苦笑せざるを得ない。

「……しかしですね、淡島君。君たちの気遣いはありがたく思いますが、一人で温泉旅行というのはどうにも物悲しい気がしませんか?」

その内実は、建前と本音が半々といったところだった。
宗像は決して、一人でいることを苦としない。
なのでこれは、計画を巧妙に隠されていたことに対するちょっとした意趣返しに近い。
しかしそんな宗像に対して、淡島の対応はどこまでも完璧だった。

「ご安心下さい。護衛として、ミョウジも明日からの三日間、非番になっております」

その瞬間、戸惑いや逡巡を全て思惟の外に放り出し、宗像は部下の気遣いをありがたく受け取ることが決定した。
それを先に言え、という話である。


そして翌日の午前十時、宗像はナマエと隣り合わせで座席に腰を下ろし、電車に揺られている。

現金なものだ、と宗像は思った。
確かに宗像は、セプター4の室長という立場に立ってから、殆ど働き詰めだった。
しかし恐らく、それを心配した部下と、当事者である宗像との認識には大きな差異があるだろう。
彼らが思うほど、宗像にとって仕事とは苦痛なものではなかった。
勿論温泉も嫌いではないが、わざわざ部下に無理をさせてまで行きたいとは思わない。
部下の嫌がる顔を見て楽しむ悪趣味な上司、というレッテルを貼られている宗像だが、態度とは裏腹に部下の身を常に案じているのだ。
宗像に三連休を用意するような余力があるのならば、それを各々の自由時間に充ててほしい、くらいのことは考えている。
つまり、気を遣わせてしまったことに対し、一抹の申し訳なさはあったのだ。
しかし今、宗像の隣にいる存在が、その感情を上から丸ごと塗り替えてしまった。

有り体に言ってしまえば、宗像は今、楽しくて堪らない。

「君も飲みますか、ナマエ?」

唇から離した茶のペットボトルを差し出せば、宗像の隣で窓から外を眺めていたナマエが振り向いた。
ん、と短い返事と共に、ナマエの手が宗像からペットボトルを受け取る。
ナマエが飲み口に薄い唇を押し当て、ペットボトルを斜めに傾けて中の液体を含む様子を見つめ、宗像は目を細めた。
普段は大抵マグカップや湯呑み等を使用するため、こんな風にペットボトルから飲む姿を見ることは珍しい。
ナマエとの初めての旅行は、宗像にとって何もかもが新鮮だった。
特急の下り電車に乗ってから、約三十分。
二人掛けの座席が中央の通路を挟んで複数列配置されたクロスシートの車両で、車窓から見える景色は随分と長閑なものになった。
窓際に座ったナマエは、後方に流れていく景色を物珍しそうな様子で眺めていることが多い。
旅行といえば宗像は子供の頃に家族で出掛けたことや、学生時代に留学していたイギリスでの観光を思い出すが、ナマエにとっては旅行自体が初めての体験だろう。
それなのに、この旅行は全て、ナマエが手配してくれたものなのだ。

淡島から温泉旅行の話を聞き、その計画を了承した際、宗像は発案者及び企画者を訊ねた。
淡島が中心となったのであろうという宗像の予想に反し、返ってきたのはナマエの名前一つだった。
ナマエが宗像に休暇を取らせたいと淡島に相談し、淡島が賛同するなり、ナマエは一人で行き先を決め、宿泊場所を予約し、三連休を用意するために業務スケジュールの調整を行ったというのだ。
淡島以下特務隊の面々はそのスケジュール通りに動いただけであり、計画はナマエの一存で決められたと知り、宗像は大層驚いた。
ナマエがそんな積極性を見せたことが、あまりにも意外だったのだ。
しかし淡島の口調に虚偽の色はなく、私はただミョウジにも同じ日程で休みを取るよう助言しただけです、という言葉によってその真実味は増した。

「一つ聞いても構いませんか?」

ナマエから返されたペットボトルのキャップを閉めながら、宗像は気になっていたことを訊ねてみる。

「なぜ温泉旅行なのでしょう」

ナマエが宗像に休暇を取らせようとする、ということ自体は、あまり意外ではなかった。
宗像が働き過ぎる度、休むようにと苦言を呈するのはいつもナマエだったのだ。
業務が落ち着いてきた頃を見計らって連休を、という気遣いは、とてもナマエらしい。
しかしその内容が温泉旅行というのは、些か不思議だった。
二人の家で寛ぐという選択肢もあっただろうに、なぜ敢えて旅行を選んだのか。

「……だって、礼司さん、都内にいたら仕事のこと、考える、でしょ」

ペットボトルをバッグの中に戻そうとしていた宗像は、思わず目線を上げた。
窓の外を見ているナマエと視線は合わないが、唇を少し尖らせた横顔が視界に映る。

「それに、温泉って、疲労回復にいいって、聞いたから、」

ぼそぼそと付け足された言葉に、宗像は破顔した。
かつてまだナマエが水というものを怖がっていた頃、それでも宗像のためを思って湯船に浸かろうと言い出してくれたことがあったのだ。
慣れないことをしてでも、宗像を癒そうと思ってくれている。
それが分かると、ばつの悪そうな横顔がとても愛おしく感じられた。
正直に言えば、宗像はナマエさえ傍にいてくれればそれだけでいいのだ。
それだけで充分に癒されるし、寛げるし、どんな幸福にも代え難い時間となる。
だが、ナマエが宗像のためを思って何か行動を起こしてくれるという事実は、非常に嬉しいものだった。
そして勿論、それが二人での旅行という初めてのイベントに繋がったのならば、宗像としては大歓迎だ。

「楽しみ、……いえ、楽しいですね、ナマエ」

宿泊先を含め、この旅行中にどんなプランが立てられているのか、宗像は未だ何も聞いていない。
ナマエがどのような計画を用意しているのか、勿論問えば答えてくれるのだろうが、宗像は敢えて訊ねないことにしていた。
サプライズ、という感覚だ。
そんな子ども染みた遊びを思い付くあたり、宗像は大層浮かれているのだろう。
移動時間さえ、ナマエが隣にいればそれだけで楽しかった。
返事の代わりに、ナマエが宗像の右肩に頭を乗せる。
視線を斜めに落とせば、瞼を伏せたナマエの顔を見下ろすことになった。

「眠いのであれば、寝ていても構いませんよ?降りる駅さえ教えて貰えれば、起こしますから」

左手を持ち上げ、ナマエの頭を優しく撫でる。
細い猫っ毛が、さらりと宗像の指を絡めた。
数日前、宗像が毛先を整えたばかりの髪だ。

「ん……、起きてます」
「そうですか?」

無理をすることはない。
きっと宗像と自分の分の連休を用意するため、ナマエはここ数日に仕事を詰め込んだのだろう。
いくらセプター4の業務が半年前と比較して少なくなったとはいえ、相変わらず特務隊はそれなりに多忙なのだ。
宗像としては、ナマエにはもう少し楽をさせてあげたかった。

「礼司さん、いるのに。もったいない」

右肩に乗る微かな重みと、そこから小さく紡がれた言葉。
宗像はゆっくりと頬を緩め、もう一度ナマエの髪を撫でた。

「では、たくさんお話しをしましょうね」

小さく頷いたナマエが、左手の人差し指で宗像の右手にちょんっと触れる。
まるで猫が対象の様子を窺うようなその接触があまりに可愛らしく、宗像は内心で盛大に悶えながらナマエの手を握り締めた。





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