[8]そこに優しい温度がある
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「ミョウジ!」

少し懐かしくも感じられてしまう声に、ナマエは振り返る。
廊下の向こうから、弁財酉次郎が足早に近付いて来るところだった。
あまり感情をそのまま顔に出さない弁財にしては珍しく、その表情には喜色が乗っている。

「弁財さん、」

青い制服の裾を翻して歩く姿に、ナマエは少し微笑んだ。
弁財の派遣先はイギリス、ロンドンだった。
情報交換や報告のため連絡は密に取っていたが、こうして顔を合わせるのは二ヶ月ぶりだ。

「ただいま。遅くなってすまない」

ナマエの前で足を止めた弁財が、右手をナマエの頭に乗せて髪をくしゃりと撫でる。
ナマエはされるがまま、宗像とはまた異なる手の感触に目を細めた。
弁財の方が、皮膚が硬いのだ。
でもナマエはそれが嫌いではなかった。

「おかえり、なさい」

特務隊からもう何人か、帰国の目処が立ったという連絡は受けているが、実際に椿門へと帰着したのは弁財が最初だ。

「お疲れ、大変だっただろう」

この二ヶ月間、ナマエ以外の特務隊隊員は全て海外に出払っており、国内の騒動に対して差配していたのはナマエ一人だった。弁財はそのことを労ってくれているのだろう。

「いえ、弁財さん、こそ、」

確かに、ストレインの発生も事件の数も、国内が飛び抜けて最多ではあった。
しかしナマエからしてみると、見知らぬ土地で慣れない組織の指揮を執る方が余程大変そうに思える。

「なに、大したことはなかったさ」

しかし弁財は、気取らない台詞と共に笑うだけだった。
弁財酉次郎とは、そういう人だ。
たとえどれほどの苦難があっても、それを言葉や態度には出さず、驕ることもしない。

「あまり休んでいないだろう。体調は大丈夫か?」
「大丈夫、です」
「そうか。室長のご様子は?」

それまで、辿々しくはあるものの迷いなく答えを返していたナマエが言葉に詰まったことを、弁財が見逃すはずもなかった。

「……仕事の引継ぎより、そっちを先に聞こう」

そう言って優しく笑った弁財が、情報処理室に向け歩き出す。
二歩分遅れて、ナマエもその後を追った。


弁財が二ヶ月ぶりに淹れてくれたココアは、ナマエの好きないつもの味だった。
カップを両手に包み、ほっと息を吐く。
自分の分としてコーヒーを用意した弁財が、ナマエの隣に腰を下ろした。

「さっき帰投の挨拶に伺った時は以前と変わらない様子に見えたが、何かあったのか?」

長時間のフライトを経て帰国したばかりとは思えないほど明瞭な口調に、疲れの色は見えない。
鍛え方が違うのだろうな、とナマエは思った。

「……別に、何があったって、ことでも、ないんです、けど」

それは事実だ。
確かに細々とした案件が山のように積み重なっていた二ヶ月間だったが、たとえばベータ・クラスのストレインが発生するような大事件は一度もなかった。

「もしかして、室長と何かあったのか?」

弁財の声音が僅かに変化する。
それは明らかに、宗像とナマエが単なる上司と部下ではないことを理解した上での問いだった。
特務隊、否、セプター4において、宗像とナマエの関係が特殊であることを知らない隊員は殆どいない。
もちろん二人の出会いや正確な関係性までは広まっていないが、少なくともナマエが宗像にとって特別であることは誰もが理解していた。
まず、最高責任者である宗像がそれを隠そうとはしなかったのだ。
ナマエ自身、職務においては単なる一部下としての態度を弁えようとしていたが、実際は記憶のフラッシュバック等によって錯乱し、任務中に宗像を名前で呼んでしまったこともある。
挙句、宗像のダモクレスダウンを目前にした時は衆目など微塵も気にせず宗像に抱きついたのだ。
これでただの上司と部下です、と言い張るのは無理な話である。

「……そっちも、何かあった、ってわけじゃない、と思う、んですけど……」

言葉を選ぼうと思考を巡らせてみたが、結局は同じ返答にしかならなかった。
そもそも、ナマエ自身が現状を上手く把握出来ていない。
何か違和感はあるのだが、それをどう表現すればよいのか分からず、また解決の糸口さえ見つけられていなかった。

「どんなイメージだ?もやもやするとか、苛々するとか、」
「………もやもや、する」
「なるほど。室長に対して、何か違和感があるんだな」

分かりやすい言葉を使って、弁財がナマエの思考を読み取ろうとしてくれる。
ナマエは素直に頷いた。

「室長には話してみたのか?」

今度は首を横に振る。

「そうか。上手く話せないのか?それとも話したくないのか?」

上手く話せない、と答えようとして、ナマエは思い留まった。
改めて聞かれると、果たしてそれはどちらなのだろうか。
違和感が上手く言葉にならず、もどかしく思っているのは確かである。
しかしこれまでにも、ナマエが感情を的確に表現出来ないことは多々あった。
その度、ナマエの支離滅裂な訥弁による主張を、宗像は丁寧に聞き取って理解してくれた。
ナマエも、宗像がそうしてくれることを知っている。
ならば今回、宗像に何も話せないのは、話したくないからなのだろうか。

「……お前と室長は、少し特殊だな」
「特殊?」
「ああ。きっと俺たちには正しく理解出来ないんだろう」

弁財はそう言ってコーヒーを一口飲むと、身体ごとナマエに向き合った。

「でも、だからこそ分かることもある。お前と室長が長い付き合いで、互いのことを良く知っていても、別の人間であることに変わりはないんだ」

べつのにんげん、とナマエは繰り返す。
弁財が従容とした所作で一つ頷いた。

「仮に言いたいことが言わなくても全て伝わってしまうとしても。仮に言ったところで伝わらないとしても。大事なのは、互いを理解し、理解されようとするその気持ちだ」

言葉の意味は理解出来る。
だがその真意が分からず首を傾げたナマエに、弁財は柔らかく笑った。

「室長に話してみろ。自分のタイミングでいい。でも、ちゃんと話してみろ。上手く説明出来なくても、相手を傷付けるような言い方になったとしても、大丈夫だ。室長はきちんとお前の言うことを聞いて、考えて、必ず理解して下さる」

必ず。
弁財の言葉から、引っ掛かった部分を切り取って思惟の中に転がす。
果たしてそうだろうか、と不安に思ったことが、弁財には違うことなく伝わったのだろう。

「必ず、だ。こればかりは、上手く言えないがな。あの方は、お前のことなら絶対に分かって下さる。それは、俺の確信だ」

そう言って、弁財はもう一度ナマエの頭を撫でた。


弁財の帰投を皮切りに、隊員たちが徐々に椿門へと戻って来た。
そして、弁財に遅れること一週間、最後にアメリカから淡島と伏見が揃って帰国し、ついに全隊員が屯所に揃った。

「遅くなって悪かったわね、ミョウジ」

宗像への報告を終えた淡島に、情報処理室で声を掛けられる。
他の隊員たちにもそうしたように、ナマエは「いえ、」と短く返した。

「屯所をありがとう」
「……いえ、私は別に、何も、」

それは、謙遜でも何でもなかった。
確かに仕事は真面目に熟したが、淡島の言う"屯所"とはつまり、上司である宗像のことも含まれているのだろう。
それならば尚更、ナマエは何もしていない。
どちらかと言えば、宗像を困惑させる原因を作ってしまっていたような気がした。

「何も、なんてことはないわ」

しかし淡島は、珍しくも柔らかな笑みを浮かべてナマエの言葉を否定する。

「先ほど、室長にご挨拶に伺ったら、貴女の話になったのよ。室長は、貴女がいたからこそ大義は守られたと仰っていたわ」

その言葉に、ナマエは何と返事をすればいいのか分からず黙り込んだ。
宗像がそう言った理由も理解出来ない。

「だから、ありがとう」

そんなナマエを置き去りに、淡島は褒めるようにナマエの頭をぽんと撫で、その後はいつも通り引き締まった口調で隊員たちへ仕事を振り始めた。



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