[7]どうか独りにしないで
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ごめんなさい。

その言葉を最後に、ナマエは何も言わなくなってしまった。
謝罪の理由を訊ねても名を呼んでも、頑なに宗像の肩から顔を上げようとしない。
強引に聞き出す手段が一つもないわけではなかった。
しかし宗像はそのどれをも選ばず、今夜はもう眠って下さい、とナマエをベッドに横たえた。
宗像はもう二度と、ナマエの意に沿わないことをしたくないのだ。
それは恐らく、宗像の感じる負い目だった。

ナマエには勝手に死ぬことを許さないと言っておきながら、宗像自身は自らの命を最後に諦めた。
五年近くかけてナマエが宗像に寄せてくれた絶対的な信頼を、木っ端微塵にした。
ゼロになった信頼が、再び以前と同じように築かれるのかどうか、それは宗像が知ることではない。
だが、傲慢に、そして貪欲に、宗像はそれを望んでいる。
渇望していると言ってもよいだろう。
もう一度、取り戻したい。
もう一度、ナマエの心に触れたい。
そのために出来ることはただ一つ、地道に、確実に再びゼロから始めることだった。
十七歳のナマエを道端で拾った時と同じように、ありのままのナマエを受け入れ、傍で見守り、宗像礼司という存在がナマエにとっての絶対になるよう努めるだけだ。
全く同じ関係に戻ることは、ないのかもしれない。
互いの間に生じた溝は、ナマエの胸に空いた穴は、二度と埋まらないのかもしれない。
だが、たとえ五年、十年、それ以上掛かったとしても、宗像は諦めない。
一度諦めてしまったナマエと共に生きるという道を、もう二度諦めたくないのだ。
だが、そう決意した一方で、臆病なもう一人の己が常に暗澹たる声音で囁きかける。
果たしてナマエはそれを望むのか、と。

宗像の行動を肯定し、怒っていないと言ってくれたナマエの言葉が宗像への憐憫ではないと、誰が断言出来るだろうか。
あれがナマエの本心だった、という確証はどこにもなかった。
≪王≫を失い、怒っていますかと震える声で問うた宗像の姿は、ナマエの目から見てもさぞ弱々しく映っただろう。
あの心優しいナマエは宗像のために、宗像を気遣って、怒っていないと答えたのかもしれない。
本当は、宗像の裏切りを許せていないのかもしれない。
ごめんなさい、と零された言葉はそのことに対する謝罪だったのかもしれないと、宗像はナマエの心中を忖度し不安を強めた。

ナマエを起こさぬよう慎重に掛け布団を捲り、その中を覗き込む。
静かに眠るナマエが今夜も宗像の浴衣を掴んでいることに、これ以上ないほど安堵した。
分かりやすく目に見える形で宗像に縋ってくれる、白い指先。
宗像は細く息を吐き出し、ナマエの髪をゆっくりと払って露になった首のチョーカーに触れた。
その青はもう、厳密に言うと宗像礼司の色ではない。
青の王という肩書きは、すでにこの世界のどこにも存在しないのだ。
宗像を含め、セプター4の隊員にはまだ異能の力が僅かに残っているし、制服も標章も変わらず青いままではある。
しかしもう、青は宗像礼司の色ではないのだ。
かつて自らの色を乗せてナマエに与えたチョーカーは、今この時、果たしてどのような意味を持つのだろうか。
四年前の誕生日に宗像が用意したチョーカーを、ナマエは本当に入浴時以外ずっとつけている。
宗像が知る限り、例外は一度もなかった。
宗像の醜い占有欲を甘く満たす首輪が今もナマエの首にあることに、自惚れてもいいのか、それとも単なる惰性に過ぎないのか。

「……ナマエ……」

本音が聞きたいと思った。
だが同時に宗像は、それを恐れる自分がいることにも気付いていた。
恐れている、という実感に、宗像は未だ困惑する。
何かに恐怖心を抱くという感情は人間として至って普通なのかもしれないが、宗像にはあまり馴染みのないものだった。
元々宗像は、稟賦の才で以て人が漠然と抱く恐怖心を冷静に分析しそれを恐れるに足りないものと理解してきたし、王となってからは一層その傾向を強めていた。
後にも先にも、宗像に恐怖という感情を与えてくれるのはナマエだけだ。
ナマエに関することでのみ、宗像は人として当たり前の恐れを抱く。
失うことへの、拒絶されることへの、そして傷付けてしまうことへの恐怖。
宗像はただひたすらに、怖い、と思うのだ。

ナマエの微かな寝息に耳を傾けながら、宗像はゆっくりと青いチョーカーをなぞる。
時折、指先が自らの意思とは関係なく震えた。
今夜は夢を認識していないのか、ナマエの寝息は穏やかだ。
事件後、宗像が毎晩ナマエを部屋に招くようになってから、もうすぐ一週間。
寝言で名を呼ばれた夜は、三度あった。
その度に、夢の中でナマエは言うのだ。
行かないで、行っては嫌だ、と。
それは、宗像の行為がナマエを深く傷付けた証拠に他ならなかった。
朝起きた時、ナマエはいつもその夢を憶えていない様子だった。
宗像が直接確認したわけではないが、ナマエの様子に夢の内容を想起させるものはなかった。

「……今夜は、幸せな夢だといいのですが、」

何と無責任な願いだろうか。
宗像は、漏らした独り言に自嘲した。
罪悪感に押し潰されそうだった。
ナマエの幸福を願う資格など、宗像にはもうありはしないというのに。


ナマエの様子が気掛かりで、宗像はこの一週間、殆ど眠っていなかった。
しかし、身体は流石に限界だったのだろう。
静かに眠り続けるナマエに僅かながらも安堵していたのか、宗像は久しぶりに深い眠りへと落ちた。


そして翌朝、目を覚まして隣にナマエの姿がないことに気付いた瞬間、宗像は飛び起きた。
上体を起こし、そう広いわけでもない寝室に視線を走らせれば、視力の悪い宗像でもナマエがいないことはすぐに分かる。
宗像は慌ててヘッドボードから眼鏡を取り上げ、それを掛けた。
一瞬で明瞭になった視界。
もう一度寝室を見渡した宗像は、ある一点で目線を留めた。
そこにある物を脳が認識し、そして愕然とした。
サイドテーブルの上、そこにぽつんと置かれていたのは青いチョーカーだった。
見紛う余地もなく、それはナマエのものだ。

「ナマエ……っ?!」

張り付いた喉から、掠れた声が迸る。
慄然と、思惟が真っ白に染まった。

なぜ、どうしてこれが、ここに。

置いてあるということは、ナマエが外したということだ。
自らの意思でこれを外し、置いて行った。
それは何を意味するのか。

そのようなこと、問うまでも、ない。

これが、ナマエの答えだ。
昨夜の謝罪がきっと、ここに繋がるのだ。
宗像は殆ど力の入らない脚で何とか立ち上がり、サイドテーブルからチョーカーを取り上げた。
四年前、ナマエに差し出した時よりも少し色褪せ、柔らかくなった皮革。
宗像は、声すら出せずに震える手でそれを握り締めた。

しかし、ここで絶望しているわけにはいかない。
もう二度と手放さないと決めたのだ。
宗像は顔を上げ、足早に寝室のドアへと向かった。
まずはナマエを探すことから始めなければならないと、気が焦燥に満ちていたのだろう。
反対側から開かれたドアに不意を突かれ、避けることも叶わずドアの角を顔面で受け止めた。

「…………へ?」

いくら木製とはいえ、額と眼鏡と鼻頭に直撃した痛みはそれなりである。
全く予期していなかったということもあり、流石の宗像も顔を押さえて後退った。
ドアを開けた張本人もまた、意識が散漫になっていたのだろうか。
宗像にドアをぶつけた、ということをようやく理解したらしく、気の抜けた声を上げた。
しかしその声は、宗像が探し求めていたものだ。

「ナマエっ!」

位置のずれた眼鏡の向こうにナマエの姿を見つけ、宗像は痛みなど忘れてその身体を抱き寄せた。
唖然としていたところで次は不意に抱き締められ、ナマエは驚いたように身動いだが、宗像はその抵抗を許さなかった。
確かに、二度とナマエの意に反することはしなくないと思う。
しかし宗像から離れようとする、という意思だけは例外だ。
それだけは、たとえナマエがどれほど望もうとも許すつもりはなかった。

「どこに行っていたのですか」
「……あの、トイレ、ですけど」
「………は、い?」

しかし、低めた声で投げ掛けた問いに返ってきたのはあまりにも日常的な単語で、宗像は思わずナマエの顔を覗き込んだ。

「お手洗い、ですか?」
「そうです」
「………え、あの……、では、これは……?」

背中に回していた片腕を戻し、手の中のチョーカーをナマエの前に差し出す。
するとナマエは、何の躊躇いもなくそれを受け取った。

「トイレっていうか、あの、吐いてて、」
「吐いた?」
「……なんか、気持ち悪くて、起きて、」

想定外の告白に、宗像は慌ててナマエの身体を解放する。
吐き気があるのに強く抱き締めては、余計に苦しいだろう。

「吐きそうで、トイレ行かなきゃって、思って。それで、絶対汚したく、なかった、から、」

真っ先にチョーカーを外したのだ、と。
ナマエに説明され、宗像は思わず床に座り込んだ。

「え、あの、礼司さん?」

腰を抜かしたようにぺたりと崩れ落ちた宗像に、ナマエが驚いた様子でしゃがみ込み視線を合わせてくる。
宗像は何とか笑みを浮かべようとして失敗し、結局酷く情けないことになった顔を見られまいとナマエの肩口に擦り寄った。

「あの、大丈夫、ですか?」

具合が悪いはずのナマエに問われ、宗像は複雑な心境に陥る。
ドアへの顔面強打に始まり、みっともない姿を見せた羞恥心はなかなかのものだ。
だがそれよりも、外されたチョーカーに宗像の危惧したような意図がなかったことに対する安堵の方が大きい。
そして何よりも、いま一番大切なのは宗像の心情ではなかった。

「それは私の台詞です、ナマエ。気分はどうですか?戻しましたか?」

宗像は立ち上がりざまにナマエの身体をそっと抱き上げ、ベッドに座らせた。
床に膝をついて見上げれば、少し顔色が悪い。

「ん、ちょっと。でも、もう、平気です」

ナマエはそう答えて小さく笑うと、当たり前のようにチョーカーを首に巻いた。
慣れた所作で金具が留められ、あっという間に宗像の見慣れたナマエの首元になる。
その光景に心底安堵したことを、宗像は自覚せずにはいられなかった。








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