[6]伸ばした手は届かないまま
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その日を境に、宗像は毎晩ナマエを自室に泊まらせるようになった。
どうやら宗像はナマエの食事の心配をしているらしい、ということは、毎夜ナマエの好物ばかりが並ぶ食卓を見ればすぐに察せられた。
最初はオムライス、翌日は和風パスタ、その次はグラタン。
ナマエは、宗像が作ってくれる料理を出来る限り残さないよう頑張って食べた。

宗像がナマエに対して甲斐甲斐しいのは、ずっと前、それこそナマエを拾った時から変わらない。
過保護というか、甘いというか、とにかくどこまでも優しくしてくれる。
勿論仕事中はその限りではないが、プライベートになるとまるでナマエが一人では何も出来ない幼子であるかのように世話を焼く。
ナマエはそれが宗像なりの愛情表現なのだと思っていたし、そうすることが宗像にとっても楽しいのだと知っていたから、何も気にせず宗像の手を受け入れていた。

しかし今、バスルームでナマエの髪を丁寧に洗う宗像の指先から、ナマエは情愛以外の気配を感じ取ってしまうのだ。
宗像が変なのはわりといつものことだが、今回は何かが違う。
優しく触れてくる指先に、以前は存在しなかった怯えがあるように思えてしまう。
きっと宗像は、何かを恐れているのだ。
それが何であるのか、ナマエには理解出来なかった。

「流しますよ」

シャワーヘッドを手に、宗像が優しく声を掛けてくる。
バスルームの中にいるため少し反響する、まるで弦楽器を弾いたような心地好い低音。
ナマエは宗像の声が好きだった。
この声を最初に聞いた時、耳にした言葉を今でも憶えている。
視力を失った状態で、それがどこであるのかも分からない布団の上で、目を覚ました時。
気が付きましたか、と。
宗像はナマエに声を掛けたのだ。
その後は散々だった。
フラッシュバックした暴行の記憶に怯え、全力で暴れ、宗像を蹴って殴って引っ掻いて、を何度繰り返しただろうか。
それでも宗像は、ナマエを棄てなかった。
再び路上に転がすなり、警察に突き出すなり、何をしてもよかったというのに。
馬鹿みたいに優しく、馬鹿みたいに甲斐甲斐しく、宗像はナマエの世話を焼き続けてくれた。
ナマエの世界は、宗像礼司によって作り変えられたのだ。

今度は逆なのかもしれない。
漠然と、何の根拠もなく、ナマエは思う。
五年前、全てに怯えたナマエのように、宗像は今何かに怯えている。
ナマエのように錯乱することも泣き叫ぶこともないが、胸中に押し込めた何かを恐れている。
それならば、今度はナマエに救えるだろうか。
絶望しか知らなかったナマエの手を取って掬い上げてくれた宗像のように、ナマエもまた、宗像の手を握って希望を与えることが出来るだろうか。

「はい、終わりましたよ」

振り向いた先、柔らかく、どこか困ったように笑う宗像を見て、ナマエは自問の答えを得られぬまま曖昧に頷いた。


宗像の部屋は、無駄がない。
といってもナマエは比較するほど他の隊員の部屋を知っているわけではないし、ナマエ自身の部屋にも必要最低限の物しか置いていないのだが、多くの人間は自らの好みで部屋を飾ったり物を増やしたりするのだという知識はあった。
しかし宗像にその傾向はない。
セプター4に来る前、ナマエと共に暮らしていたマンションにも、あったのは大量の書籍だけで、宗像はあまり物を持たない人だった。
そんな宗像の、言ってしまえば閑散とした部屋に、一つだけ目を引くものがある。
寝室に置かれた写真立てだ。
それは、一昨年の宗像の誕生日にナマエが贈ったプレゼントだった。
ナマエが人生で初めて買った、誕生日プレゼント。
悩みに悩み、ようやく選び抜いたそれを、宗像は大層気に入ってくれて、こうして部屋に飾っている。
写真立ての中には、二人で水族館に行った日の思い出が切り取られていた。


「ナマエ?どうかしましたか?」

ベッドの縁に腰掛け、写真を眺めていたナマエは、宗像の声に振り向いた。
髪を乾かし終えた宗像が、寝室に入って来る。
ナマエは何でもないと小さく首を振った。
どこか気遣わしげに眉を寄せた宗像が、ナマエの隣に腰を下ろす。
大きな手に促されるまま、ナマエは宗像の肩に頭を預けた。
髪を撫でる手は優しく、それでいて僅かな躊躇を孕んでいるようにも感じる。

「………礼司さん、こそ、どうかしたんですか」

ナマエは逡巡の末にそう訊ね返した。
ナマエの後頭部に添えられた手が、僅かに跳ねる。

「何がです?」

やがて宗像が紡いだのは、宗像礼司の声ではなく、セプター4の室長の声だった。
問いの形でありながら、それ以上の追及を許さない硬質な音。
わざとなのか、それとも自覚していないのか。
ナマエはもう一度、首を横に振った。

分からないのだ。
こういう時、ナマエは自らが異質であることを実感する。
十七年間、隔離されて生きていた。
生きていたというよりも、ただそこに"在った"。
日常生活では何の役にも立たないような小難しい知識だけは、山ほど詰め込まれた。
しかし、所謂一般的な人が十七歳になるまでの間に知るであろう"普通"は、何一つ教えられなかった。
感情の読み方、人との接し方、言葉の選び方。
他者との接触によって経験と共に学んでいくらしいそれらを、ナマエは全く知らないまま年齢だけを重ねた。
宗像に拾われ、宗像に育てられ、ナマエはようやくその機会を得た。
人の笑う顔を見たのも、自らが笑ったのも、宗像と生きるようになってからだ。
嬉しい、楽しい、暖かい、美味しい。
胸の奥が擽ったくなるような感覚を、ナマエは宗像から教わった。
少しずつ宗像の考えていることが理解出来るようになり、その感情を読み取ることが出来るようになり、どんな時に何を言えばいいのかを知っていった。
しかし、それでもまだ足りない。
五年の歳月はナマエを作り変えたが、やはりナマエは圧倒的に未熟なままだった。

例えばナマエが"普通"であったならば、いま宗像が何を恐れているのか理解出来たのだろうか。
そして、何と言葉を掛ければいいのか分かったのだろうか。
ナマエは、自らの無力さを痛感させられた。
どうすれば宗像がいつものように笑ってくれるのか、何の答えも見出せない。
宗像はまるで当然とばかりにナマエの痛みを理解し、優しく包み込んでくれたのに、ナマエには宗像の痛みが理解出来ない。
どうすれば救い出せるのか、方法など一つも浮かばない。

ナマエは、自らの過去を不幸だと思ったことは一度もなかった。
施設にいた頃はそれが当たり前で、比較対象などなく、自身の境遇に何の感慨もなかった。
宗像に拾われ、ナマエはようやくそれが異常であったのだと知った。
しかし、だからといってそれを不幸だと感じることはなかった。
その時にはすでに、ナマエにとって宗像が全てだったのだ。
十七年間の監禁と虐待は、宗像と出会うためにあった。
あの日、道端に気を失って倒れていたから、ナマエは宗像に見つけてもらえた。
そのためだけに、ナマエは"在った"のだ。
それは不幸でも何でもない、必然だった。
だが今、この儘ならない瞬間に、ナマエは己の過去を呪う。
宗像の情意が理解出来ないことを、悲しく、そして悔しく思う。
もっと普通であったならば、と。
今更変えようのない過去を恨んだ。

職務においての宗像は、以前と変わっていないように思う。
王権者という立場を失ったことは宗像にとって大きな意味を持つはずだが、相変わらず慇懃無礼な口調と態度で政界と渡り合い、常に泰然と構えている。
宗像の様子に違和感があるのは、ナマエと二人でいる時だけだ。
つまり、それが何かは分からずとも、原因がナマエにあることだけは間違いないのだろう。

「……れーし、さん。……ごめん、なさい……」

ナマエは宗像の首に腕を回し、抱きついた。
正しく理解せずに謝るのは、普通ではないのかもしれない。
しかし、ナマエは普通を知らない。
今更過去を変えられないのであらば、今の自分が思った通りに動くしかない。
ナマエの何かが宗像を傷付けているのであれば、それを謝りたかった。

「……ナマエ………?」

しかし耳元に宗像から返されたのは戸惑いと不安を綯い交ぜにしたような声音で、ナマエは自らが間違えたことを知る。
余計に宗像を困惑させてしまったのだろう。
やはり上手くいかないと、ナマエは宗像の肩口に顔を埋めた。

その後、何度か宗像に名を呼ばれたが、ナマエは黙したまま何も言えなかった。
思惟の中で、感情と言葉が結び付かない。
何をどう説明すればいいのか分からない。
結局何一つ言葉に出来ないまま、一切反応しなくなったナマエへの追及を諦めた宗像に促されて眠りに落ちた。






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