Never Say Goodbye [1]
bookmark


深夜二時の情報室は、珍しくも静寂に包まれていた。
そう、"珍しく"静かだった。
平時であれば当たり前の光景が、今はとても貴重に感じられる。
ここ最近のjungleによるサイバー攻撃は昼夜を問わずひっきりなしにセプター4を掻き回しており、屯所は常に緊張と喧騒に満ちていた。
幸いにも今夜は平穏な時間が保たれており、室内には最低限の人員だけが残っている。
このまま交代の時間まで何事もなければいいと、ナマエは欠伸を噛み殺した。
しかし、油断が禁物だということは重々承知している。
ナマエはデスクから缶コーヒーを取り上げ、喉に流し込んだ。
徹夜も三日目となると、流石に視界が霞む。
目頭を指で押さえて揉みながら、ナマエは椅子の上で背中を反らした。

jungleによる執拗な攻撃は、かれこれ一週間ほど続いている。
その度にセキュリティを見直し、強化してはいるのだが、極々僅かな隙間を狙う攻撃はもはや嫌がらせに近く、鼬ごっこの様相を呈していた。
情報課の課員では緊急時の対応に不十分だという伏見の判断で、IT関係に強いナマエと伏見、榎本は三人のうちの誰かが常に情報室で待機するようローテーションを組んでいる。
しかしそれは、三交代制ならば一人一日八時間、という単純な話ではなかった。
セプター4が警戒しなければならないのは、ネット上の攻撃だけではない。
当然、毎日どこかでストレインによる異能事件は発生するし、jungleのクランズマンが引き起こす事件も徐々に増加してきている。
三人はもちろんそれらの対応にも特務隊として加勢しなければならないため、三交代制とは名ばかりで、特にナマエと伏見はほぼ不眠不休の状態が続いていた。

嵐の前の静けさだ、という感覚がある。
だからと言って、何をどうすることも出来ない。
その特質上、jungleはセプター4にとって天敵のような存在だった。
どうしても、セプター4はjungleに対して後手に回ってしまう。
それは仕方のないことだった。
一つひとつ敵の手を封じていく以外に、対抗の術はないのだ。
ナマエは放っておけば勝手に閉じようとする瞼を指先で押し上げながら、書き終えた報告書を保存した。
到底、誤字脱字を確認する気になどなれない。
きっと大丈夫だ、と根拠もないまま言い聞かせ、ナマエはコーヒーを飲み干した。

「ミョウジ」

空になった缶をデスクの端に置いたところで、不意に名を呼ばれる。
振り向けば、四時間ほど前に三日ぶりの仮眠を取りに行った伏見が戻って来ていた。

「問題は?」

少し眠ることが出来たのか、顔色の悪さが若干改善されている。
しかし元々不機嫌な表情ばかりの顔はさらに凶悪なものとなっており、私服で街を歩けば職務質問をされるレベルだ。

「大丈夫です。何もありませんでした」

地の底を這うような低音で問われ、ナマエは首を横に振った。
そうか、と伏見が唸る。
ブーツの底を引きずりながら歩いてきた伏見が、崩れ落ちるように椅子へと腰を下ろした。

「代わるから、お前も寝て来い」

今にも死にそうな顔をした上司に気を遣われるのは、申し訳ない。
だがナマエもその上司と似たり寄ったりな顔をしているはずで、今ばかりはその言葉に甘える以外の選択肢を持たなかった。
ありがとうございます、と立ち上がる。

「四時間で戻ります」

ナマエは鉛のように重くなった足を気力だけで動かし、情報室を後にした。
正直、今なら立ったまま眠れる。
そのまま廊下に倒れて気絶しても、それはそれで良しと出来る気がする。
しかしそういうわけにもいかないのは、ここが職場だからだろう。
ナマエは仮眠室に足を向けかけ、しかしもう三日もシャワーを浴びていないことに気付いた。

「……部屋、戻ろ……」

自らに言い聞かせるよう呟き、薄暗い廊下を蛇行する。
こんなにも寮を遠く感じたのは初めてだった。


この労働基準法も何もない忙しさには、正直閉口している。
だがナマエにとって一つだけ、それを好都合と感じる理由があった。
食事や睡眠も儘ならないほど忙殺され、仕事漬けになっていれば、余計なことを考えずに済む。
具体的に言えば、宗像のことだ。
特別な関係が終わりを迎えてから、約半月。
その内ここ一週間はあまりにも多忙で、私情を理由に落ち込んでいる時間などなかった。
傷が塞がったわけでも、気持ちに整理がついたわけでもない。
だが、宗像とのことは心の奥底に押し込められ、そこから浮かび上がって来ることはなかった。
それだけが、唯一の救いだった。


三日ぶりに部屋へと戻り、すぐさまエアコンの電源を入れる。
ベッドという誘惑を何とか振り切り、わざわざ戻って来た労力を無駄にせぬようバスルームに向かった。
烏の行水でシャワーを浴び、歯を磨く。
最後に食事をとったのは、昨日の昼頃だっただろうか。
食事といってもその内容は固形の栄養補助食品である。
すでに胃は空のはずだが、眠気が酷すぎて空腹など感じなかった。
髪を乾かす作業もそこそこに、床に落ちていたオーバーサイズのシャツを頭から被る。
何とか三時間は眠れるだろうと、ようやく念願のベッドに飛び込んだ。
そうしたら、何か固いものが額に当たった。

「い、った……!」

流石に眠気よりも痛覚が勝った。
顔を上げれば、そこには充電器に差しっ放しの私用タンマツがある。
久しぶりに目にしたそれが痛みの原因であることを理解し、ナマエは短く唸った。
強引に筐体を掴んで脇に除ける。
その拍子にスリープモードが解除され、タンマツの液晶に光が浮かんだ。
表示された新着メールの通知に、ナマエは指紋認証でロックを解除する。

「新着メール、読み上げ」

このタンマツは完全にプライベート用で、セプター4関係者の連絡先は登録されていない。
どうせ母親からの正月帰省を促す小言か、もしくは友人からの飲み会への誘いだろうと判断し、ナマエは枕に顔を埋めたまま声でアプリケーションを起動させた。
音声解析ソフトがナマエの声を拾い、声紋認証し、その命令に従う。

『こんばんは、ナマエ』

耳馴染みのある、機械的な女性の声。
この時点で、ナマエは気が付くべきだった。
通常、着信の日時とメールの送信者を先に告げるはずの音声が、突然本文と思しき文章を読み上げ始めたことに。
しかしすでに思惟の半分が眠りの中に引き込まれていたナマエは、その違和感を見落とした。

『ここ一週間、君の働きぶりは見事ですね。感心です』

烟る思考に、単調な音声が流れてくる。
それを子守唄代わりとし、夢の中に旅立ちかけたところで、次に聞こえてきた声にナマエの脳髄は揺さぶられた。

『もし君が良ければ俺のクランズマンになりませんか、ナマエ』

唐突に、まるで張り手を食らったかのような衝撃を受け、ナマエはベッドから跳ね起きる。
一気に覚醒した脳がまず初めに認識したのは、タンマツの上に現れたホログラムだった。
ネット上でよく目にする、小さな人型のアバター。
能天気な笑みを浮かべたアバターが、口を開いた。

「インスタレーションは簡単に済みますよ」

先程まで女性の声だった音が、突然聞き覚えのない男の声へと変化する。
アバターの周囲に緑の光が走り、ナマエはこの状況と己の迂闊さとを同時に理解した。
このアバターの向こうに、緑の王がいる。
ナマエは今、王と一対一で向かい合っているのだ。
咄嗟に壁とベッドの隙間に手を入れて、そこに隠してあるナイフを引き抜く。
しかしそれをタンマツに突き刺す前に、宙を迸った緑の電流によってナイフを手から弾き飛ばされた。

「ーーっ」

頭の中で警鐘が鳴り響く。
目の前のアバターが浮かべる笑みと首筋を撫でる静電気に、全身が総毛立った。

「俺たちは君を歓迎します」

抑揚の少ない、底意が全く読めない声音。
ぱちぱちと電流の走る音に、ナマエは息を呑んだ。
にっこりと笑うアバターが、両手を広げる。

まずい、と血の気が引いたその瞬間、背後でドアが叩き開けられる盛大な音を聞いた。








prev|next

[Back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -