Wherever You Are [2]「失礼しました」
タブレットを小脇に抱えた後ろ姿が部屋から消えてもなお、宗像はじっと扉を見つめていた。
貼り付けていた笑みが一瞬で崩れたことを自覚する。
「……ナマエ………」
無意識のうちに唇から零れた名前に、狂おしいほどの切情が募った。
初めて心から愛した人だった。
その笑みを見るだけで自分も嬉しくなり、ころころと変わる表情に癒された。
物怖じすることなく真っ直ぐに向かってきてくれる姿勢に、心が惹かれた。
少しでも多く言葉を交わしたくて頻繁に話し掛ければ、その度に幸せな感情が生まれた。
ただの上司と部下では到底物足りなくなり、食事に誘えば喜んで頷いてくれた。
あんなにも楽しく、美味しく感じる食事は久しぶりだった。
ナマエは、宗像を人間たらしめてくれる。
いつの間にか王の鎧に同調して忘れ去っていた人としての感情を、思い出させてくれる。
二人きりの時間は、特別だった。
如何に他愛のない話でも、交わす言葉の一つひとつが燦然と輝いていた。
抱き締めたナマエの身体は、驚くほどに温かかった。
やがて委ねられた柔らかな肢体を、宗像は優しく、どこまでも丁寧に慈しんだ。
本当は、欲望の箍が外れないよう必死で自制していた。
何よりも、誰よりも、大切にしたかった。
愛し、慈しみ、包み込んで、何からも守りたかった。
いつだって笑っていてほしかった。
それだけで宗像は救われた。
礼司さん、と呼ばれる瞬間。
宗像を見上げて笑うナマエ。
腕の中、安心しきったように目を閉じて。
ナマエはいつも、宗像の傍にいてくれた。
幸せだった。幸せすぎた。
それは、宗像には許されざる二年間だった。
新たな赤の王が誕生する契機となった、jungleによる御柱タワー襲撃事件。
それからおよそ半月、石盤の間にて、宗像の優秀な脳は遠からず訪れる自らの死期を悟ってしまった。
全てを置いて逝く未来が、視えてしまった。
宗像は熟考した。
誰も巻き込むことなく、誰を危険に晒すこともなく、終わらせる方法を模索した。
宗像の死の巻き添えにしてはいけない。
そして宗像の死後、クランズマンたちが自由を奪われることのないよう、死ぬ前に出来る限り遠ざけておかねばならない。
間違っても、都合よく利用されることのないように。
その後の生き方を、彼らが自ら選べるように。
伏見を手放すこと。
特務隊を淡島に任せ、彼女に何も伝えず、遠ざけること。
使えるものを全て利用して、セプター4という組織を解体させること。
何千、何万というパターンをシミュレーションし、最善の道を選んだ。
全てが計画通りにいけば、宗像は部下を巻き添えにすることなく、自らを殺させるための鬼だけを連れて死地に赴けるはずだった。
最も確かな、最も適切な方法を選定した。
手段の取捨選択に悩みこそすれ、そこに感情を挟む余地などなかった。
例外は、一つだけだった。
クランズマンという枠組みではなく、唯一の愛すべき人として、ナマエはいた。
絶対に、宗像の死に巻き混んではいけなかった。
何としてでも無事に、そして幸せに生きてほしかった。
たとえどんな犠牲を払おうとも、ナマエを守らなければならなかった。
幾度となく迷った。
どうすれば傷付けることなく、かつ確実に遠ざけることが出来るのか。
何と言えば、ナマエは宗像のことを忘れて幸せになれるのか。
答えは早々に出ていた。
しかし、それは苦渋の選択だった。
宗像にとって、あまりにもつらい方法だった。
理性が選択肢を絞っても、感情が拒絶した。
嫌だと、まるで聞き分けのない幼子のように駄々を捏ねた。
だが、最終的に宗像は断腸の思いでナマエを切り捨てた。
もうこれで最後にしましょう、と。
理由は説明しなかった。
ナマエがその言葉をどう受け止めたのか、宗像は知らない。
嫌いになった、飽きた、最初から好きではなかった。
どれも不正解だ。
だが、どう思われていても良かった。
出来ることならば、恨んでほしかった。
酷い男だと憎んで、そして忘れてほしかった。
今にして思えば、きっと宗像は知っていたのだろう。
いつか、こんな日が訪れることを。
だから宗像は、ナマエに対して一度も愛を囁かなかった。
愛していないから、言わなかったのではない。
心底愛していたから、言えなかったのだ。
ナマエへの想いはたったの一度も紡がれることなく、宗像の胸底に仕舞われた。
これでよかった。
これで宗像は、誰も巻き込まずに限界まで戦って死ねる。
今は傷付いているナマエも宗像の死後、時間の経過と共に宗像を忘れ、何に縛られることもなく新たな人生を歩むことが出来る。
だから、これでいい。
「………と、理解はしているのですが、」
執務机に両肘をつき、宗像は深く項垂れた。
終わりを告げた時のナマエの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
理由を問う微かに震えた声が忘れられない。
あの瞬間、違うと叫んでしまいたかった。
愛しているのだと、離れたくないのだと、計画を台無しにする覚悟で形振り構わず抱き締めてしまいたかった。
だが、それは許されなかった。
この痛みは、王の道が孤独なものだと知っていながら途中までナマエを巻き込んでしまった愚かな宗像への罰なのだろう。
幸せな二年間の代償は大きかった。
これから訪れる怒涛のような日々を、ナマエの一番近くで過ごしたかった。
折れそうになるかもしれない心を支えていてほしかった。
甘えたかった。
そしてそれ以上に甘やかし、傍で守りたかった。
死ぬ間際まで、一緒にいたかった。
全て、宗像の許されない我儘だ。
叶えることは可能なのに、叶えてはいけない希求だ。
組んだ両手に額を押し当て、宗像は目を閉じた。
瞼の裏、鮮明に記憶している数多の思い出を切り取って一枚のフィルムに貼り付けたような、コマ送りの映像が流れていく。
スプーンを咥えて美味しそうに目を細めるナマエ。
宗像が笑うと少し驚いたように目を瞠った後、ナマエも嬉しそうに笑う。
揶揄うと拗ねたように小さな唇を尖らせる。
手を繋ぐとはにかみ、抱き締めると宗像の背に手を回してくれる。
ベッドに押し倒せば、恥じらいながらも宗像に身体を委ねてくれる。
礼司さん、と。
それは、ナマエだけの特別な呼び方だった。
プライベートでも室長と呼ぶナマエに、仕事を離れている時は名前で呼ぶよう促したのは、何度目かの二人きりでとった食事の後だったと記憶している。
その時を境に、プライベートでは互いに名を呼び合うようになり、距離が一気に縮まった。
ナマエの声で呼ばれるその響きを、宗像は大層気に入っていた。
二人きりの部屋で、ベッドの中で、ナマエはいつもそう呼んでくれた。
礼司さん、と。
少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、その特別な音を紡いでくれた。
その呼び掛けに、はい、と振り向くのが好きだった。
もっと呼んでほしくて、わざと聞こえないふりをしたこともあった。
礼司さん。
「……礼司さんってば、」
思惟に届いた音に、はっと勢い良く顔を上げる。
だが、見開いた目に映るのは先程と何一つ変わらぬ見慣れた執務室で、宗像の椅子から扉まで、間にあるものは執務机だけだった。
その向こうには当然誰もいない。
そこに、笑って宗像を見つめるナマエの姿はない。
宗像が自ら手放したのだから、当然だった。
ナマエが宗像のもとに帰って来ることは二度となく、またそんなことがあってはいけない。
「………未練がましいな、」
宗像は自嘲に唇を歪め、眼鏡を外して目元を手の甲で覆った。
椅子の背凭れに深く身体を預け、天井を仰ぐ。
無性に煙草が吸いたくなった。
ナマエが傍にいれば、そんなものは必要なかったのに。
立ち上がり、机の引き出しから煙草とライターを取り出す。
ソフトケースの中から一本抜き取って唇に咥え、窓際に歩み寄った。
そのまま窓を開け放てば、十一月の冷たい風が室内に流れ込んで来る。
左手で囲いを作り、右手で着火レバーを押した。
煙草の先端を火に翳して息を吸い込み、肺を満たしてから吐き出す。
用のなくなったライターを机の上に投げ出した。
窓枠に背を預け、瞼を伏せて紫煙を燻らせる。
苦味が舌を焼いた。
かつてないほど煙草を不味く感じた。
それでよかった。
「………幸せに、なって下さいね」
吐き出した白い煙は、ゆっくりと冷えた空気に溶けて消えた。
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