Wherever You Are [1]
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※ KRK#11オンエア前の執筆のため、今後公式との矛盾が発生する可能性が高いです。









「おはようございます、ナマエ」

朝を告げたのは、愛し慕う人の声だった。
ふわふわとした砂糖菓子というよりは、とろりと零れる蜂蜜のような音。
もっと、ずっと聞いていたいと願いたくなる、甘やかな音。

「ふふ、お寝坊さんですか?」

微睡みに身を委ねたまま目を閉じていれば、鼓膜を優しく擽るような笑い声が聞こえた。
瞼の裏に、よく知る柔らかな笑みが浮かぶ。
計算尽くの完璧な微笑ではなく、少し崩れて綻んだ、蕩けるような笑み。

「早く起きないと、悪戯をしてしまいますよ?」

くすくすと楽しげに喉を鳴らして寝起きには不適切なことを言うのは、よくあることだった。
ナマエはその度に何を言っているのかと詰ったが、それは口先だけの半ば照れ隠しのような反抗で、本当は欠片も嫌がってはいなかった。

「ほら、ナマエ。早く君の可愛い笑顔を見せて下さい」

まるで懇願のように促され、それが方便だと分かっていてもつい従ってしまう。
心地好い夢の中から思惟を引っ張り上げ、そっと瞼を持ち上げた。

やっと起きましたね、お寝坊さん。


そう言って、嬉しそうに笑う姿は、

「………はは……っ、馬鹿みたい」

どこにもなかった。


目を開けた視界の中にあるのは、枕とシーツとコンフォーター。
真っ白な世界に、愛する男の姿はない。
伸ばした手が掴むのは冷え切ったシーツだけで、温かな人肌など存在しなかった。

「……やな夢……」

呟きは誰に拾われることもなく、枕に吸い込まれて消える。
笑顔の代わりに、一筋の涙が零れた。
まだ出るのかと自分でも呆れ返る。

ナマエが恋人であったはずの宗像礼司に捨てられてから、一週間が経っていた。


初めての、身を焦がすような恋情だった。
相手は青の王、自分は大勢いる麾下の一人。
叶うことなどないと最初から諦め、ひっそりと胸の内で大切に育てた愛慕だった。
その想いを伝えるつもりなど毛頭なかった。
捨てることも叶えることも出来ない恋心は時にナマエを苛んだが、その痛みまでをも含めて宗像への想いだった。
ただ宗像を恋い慕い、彼のために尽くすことが出来ればそれでよかった。
まさか宗像と同じベッドで眠る日が来るなんて、かつては想像したこともなかったのだ。

きっかけは、曖昧だった。

宗像から、好きだとか愛してるだとか付き合いましょうだとか、明確な言葉を聞いたことはない。
だから、正式な恋人であったのか否かもナマエの知るところではない。
しかし、特別な関係であったことだけは間違いなかった。

最初は、夕食に誘われた。
次に宗像の私室で酒を酌み交わした。
それ以降何度か同じことを繰り返し、それが日常の一部になった頃、初めて身体を重ねた。
恋人と呼べるほど明確な言葉や約束はなかったが、身体だけの関係と言うほど殺伐とした雰囲気でもなかった。
宗像はどこまでも優しかった。
そっと手を繋ぎ、柔らかく抱き締め、甘く微笑み、丁寧に触れてくれた。
性欲を満たすためだけならば決して必要のない、溢れ返るほどの情愛を傾けてくれた。
だからナマエは、明瞭な言葉など求めなかった。
関係性に恋人という名が付かずとも、特別であるだけで良かった。
宗像が他の人間には決して見せないような笑みを浮かべ、大切に触れてくれるだけで充分すぎた。

宗像礼司という王は、ナマエの前だと存外普通の人間だった。
もちろん、秀麗な外見や不羈の才知は作り物などではなく宗像の本質だ。
しかし圧倒的な存在感や一分の隙もない態度は王として意識された鎧であり、それを脱ぐと宗像は意外にも常並な青年だった。
わりと下らないことで拗ねたり、向きになったり、はたまた可笑しそうに笑う。
青の王として見せる泰然とした微笑ではなく、口元に手を当てて吹き出すように笑う宗像は、初めて見た時に目を疑ったほど年相応だった。

宗像が何を思ってナマエを傍に置いていたのか、その真意をナマエは知らない。
好意があったのは間違いないだろうが、それがどのような種類のものであったのか、ナマエには判断出来なかった。
しかし、敢えて確かめようとは思わなかった。
恋人という肩書きがなくとも、執務室で向けられる視線が、宗像の部屋で過ごす時間が、ナマエに特別を教えてくれた。
何の不安もなく信じきっていたとは言えないが、確かに満たされていた。
掛け替えのない、幸せな二年間だった。

終わりは唐突に訪れた。

一週間前、ナマエは宗像から何の脈絡もなく突然「もうこれで最後にしましょう」と告げられた。
明確な交際はしていなかったのだから別れたという表現は不適切だが、つまりはそういうことだった。
ナマエはその場で泣くことも怒ることも出来ず、ただ一言、理由を訊ねた。
しかし、宗像がその問いに答えることはなかった。
いつもナマエに見せていた年相応な表情ではなく、王の仮面を被ったままで、悠然と微笑んだだけだった。

それ以降、廊下で擦れ違おうが、報告に訪れた室長執務室で二人きりになろうが、宗像は一度も王の仮面を外さなかった。
決して冷然としているわけでも、素っ気ないわけでもない。
それは誰に対するものとも同様な、室長として部下に見せる態度だった。
まるで二人の二年間を丸ごと忘却したかのように、宗像は平然とナマエに接する。
そこにはきっと、罪悪感も憐憫もないのだろう。
過去に縋って一歩も動けないのはナマエだけだった。

もう二度と、宗像に名を呼ばれることはない。
綺麗な手が触れてくることも、優しく抱き締めてくれることも。
大切な恋人のように慈しんでもらうことは、二度と叶わないのだ。


「……未練たらったら、」

自嘲するように吐き捨てた。
馬鹿馬鹿しい感情だと理解している。
宗像が一度決めたことならば、仮にナマエが泣いて追い縋ったところでその決定が覆ったりはしないのだ。
だから、夢に見るほど焦がれて泣いたところで、何も変わらない。
今後宗像にとってナマエはクランズマンの一人でしかなく、それ以上でもそれ以下でもあり得ない。
先週までは違ったのかと自問しても、自信を持って肯定することは出来ない。
もしかしたら宗像の戯れだったのかもしれないし、本当に身体が目当てだったのかもしれない。
結局のところ、ナマエに宗像の底意など計りようもないのだ。

ベッドから身体を起こし、寝間着にしているパーカーを脱ぎ捨てた。
フローリングに足を降ろせば、突き刺すような冷たさが身体を這い上がってくる。
寒い、と小さく呟いた。
そして、瞼の裏に焼き付いた人のことを想った。

あの人が、寒くなければいい。
きちんと暖かな世界にいてくれるといい。

この一週間、ナマエが見たのは作り物の笑顔ばかりだった。
どうやら殆ど休みを取っていないらしく、王は疲れないと宣って仕事漬けの毎日だ。
ナマエには宗像が無理をしているように見えてしまって、余計な世話だと知っていても心配になった。

笑ってほしい。
計算尽くの笑みではなく、心から。

今更口に出来るはずもない願いだ。
ナマエの心情など、宗像は歯牙にも掛けないだろう。
無力なナマエは、ただそう願うことしか出来なかった。


制服に着替え、本棟に赴き、常のように夜勤者からの報告を纏めて宗像の執務室を訪ねる。

「どうぞ、」

ノックに返された是認は、相変わらず静謐な響きだった。
扉を開ければ、宗像が執務机に向かっている姿が目に入る。
伸びた背筋、完璧な微笑、笑わない双眸。
机にはジグソーパズルではなく書類が広がっていた。

「おはようございます」
「はい、おはようございます、ミョウジ君」

上司として、部下を見ている。
それ以外の要素は微塵もない。
きっとこの場面を第三者が見ても、宗像とナマエが一週間前までは身体を重ねる関係にあったなんて、誰一人として気付くことはないだろう。

淡々とした業務連絡。
言葉数少なく鷹揚に応じる宗像は、硬質なレンズの奥からじっとナマエを見ていた。

「報告ご苦労様です。では、今日も一日よろしくお願いしますね」

弦楽器を弾いたような、静かに響き渡る低音。
美しく形作られた微笑。

「はい。………室長、」
「まだ何か?」
「……いえ、失礼しました」

そんな顔が見たいわけではない、なんて。
身勝手な主張が出来るはずもなく、ナマエは一礼して執務室を後にした。

少し肌寒い廊下を、足早に歩く。
もう一度あの腕の中に帰りたい、と渇望した。




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