とろりと零れる情愛[2]
bookmark


鼻腔を擽る出汁の匂いで目が覚めた。
長閑な朝だな、と感じてから、眠りに落ちる前の状況を思い出して今が夜であることに気付いた。
正確な時刻など確かめもせずに寝てしまったが、もしこの忙殺された三日間で感覚が狂っていなければ、きっと夜の九時くらいではないだろうか。
タンマツで答え合わせをする気にもなれず、ナマエは目を閉じたまま微睡みに身を委ねた。
どうやら掛け布団の上に突っ伏しているらしい。
すると、背中の上に掛かっているものは何だろうか。
薄手のブランケットのようなものが乗っている気がした。
目を閉じたまま、聴覚で部屋の中を探る。
キッチンの方から、水の音が聞こえた。
そこでようやく、ナマエは恋人の存在に気付く。
いつの間に来ていたのだろうか、全く分からなかった。
夢の中でドアの開閉音を聞いたような気もするが、気のせいかもしれない。
人の気配にも気付かず爆睡していた自分に、少し呆れた。
否、そうではない。
秋山だからこそ目を覚まさなかった自分に、呆れるべきだろう。
これが他の人間であれば、ナマエは絶対に気配を察知していたはずだった。

いつの間にか、気を許してしまった。
自分でも、そのことには随分と驚いている。
他人が部屋に入って来たことにも気付かず眠りこけるなんて、かつてはあり得なかった。
決して、秋山が気配を消すことに熟練しているわけでもない。
それなのに、その秋山に対してのみ、ナマエの警戒心は全く作用しなくなった。
これまでの経験から察するに、それは恋人という肩書きの有無には関係がない。
秋山氷杜という人間だから、ナマエは無意識のうちに気を緩めているのだ。

これで実は敵の刺客でした、などという展開だったら確実に寝首を掻かれるだろうな。

ナマエは、脳内で浮かべた想像に口角を上げる。
その時は弁解の余地もないと思った。

いつから、と自問してみても、明確な答えは探し当てることが出来ない。
文字通り、気が付いた時には生活の中に当然とばかりに秋山の存在があった。
眠っているナマエに気付かせることなく部屋を訪れ、平然と食事を作っていたりする。
まさに今がそうだろう。
ナマエの能力が劣化したのか、それとも秋山に気を許し過ぎているのか。
果たしてどちらであればまだ救いようがあるのか、ナマエには判断が難しかった。
敢えて後者だと思い込むことにし、さらに秋山のくせに、と責任を転嫁する。
胸の内で罵ってみた丁度同じタイミングで、それを知る由もない秋山がコンロの火を消し止める音が聞こえて来た。
出汁の匂いが漂っている。
部屋の簡易キッチンでわざわざ丁寧に出汁を取ることはまずないので匂いの正体は顆粒出汁なのだろうが、どちらにせよ食欲を刺激する匂いであることに違いはなかった。
ナマエはこれといって食通というわけではないので、ここ三日間の固形栄養食品と比較すれば手作りの食事であるというだけで大歓迎だ。
それに、食事を作ってくれるようになった当初より、秋山の料理の腕は格段に上達した。
当時は所謂男の料理というのか、大味かつ粗放だったが、回数を重ねるごとに繊細さが磨かれ、今では食堂で提供されるものよりもナマエの舌に馴染むことが多い。
職務や稽古と同様、秋山は料理という分野においても根気良く着実に技術を習得していった。
こういうところに、本有的な摯実さが発揮されているのだろう。
ナマエが秋山のことを勤勉な男だと感じたことは、出会ってから四年でそれこそ数え切れないほどにあった。

ついでに、甘すぎる。

愛しい男の挙動を聴覚だけで追いながら、ナマエは小さく笑った。
それは決して、秋山が万人に対して慈悲深いという意味ではない。
物腰の柔らかさと控えめな態度に騙されがちではあるが、職務となると秋山は特務隊の中でも比較的厳しい部類に入った。
プライベートでも、決して理不尽な瞋恚を人に向けたり冷たくあしらったりはしないが、だからといって必要以上に優渥ということもない。
もちろんそれは、職場における社会人としての適切な距離感を保った優しさの上に成り立っている処世術なのだろう。
秋山は、本人の発言や雰囲気から想像出来るほどに手緩い男ではなかった。
その秋山が存分に甘さを発揮する唯一の相手が、ナマエである。
ナマエに対してのみ、秋山は砂糖菓子のように甘い男だった。
俗な表現に言い換えるならば、甘っちょろい。
恋人の言うこと全てに従順で、目一杯に尽くし、何があろうとも許容する。
それだけ聞くと、何とも軟弱な優男だ。
もしそれが秋山の本質ならば、ナマエもきっと好きになりはしなかっただろう。
ナマエは決して、秋山から与えられる甘さに溺れたわけではなかった。

甘い、けど、それ以上に頑固なんだよなあ。

秋山は不思議な男だった。
二面性があるというよりも、ナマエに対する意思表示の振り幅が広いのだろう。
際限なく甘いくせに、愚直なほど勁烈なのだ。
ナマエにとって、秋山から示される恭順や揺るがない愛慕が大切だったのではなく、意志を貫く真直さこそが一等好ましかった。


秋山がキッチンから部屋に戻って来る。
気を遣って足音を立てないようにしてくれているのだろうが、意識を向けていれば近付いて来る気配を逃すことはなかった。
やはり、ナマエの感覚が鈍ったのではない。
無意識下に張り巡らせている警戒心が、秋山にだけは意図しなければ照準が定まらなくなったのだ。
厄介なものだと苦笑しながら、ナマエはようやく瞼を持ち上げた。
フローリングに直接腰を下ろそうとしていた秋山が、それに気付いて一瞬驚いたように動きを止める。

「あ、目が覚めましたか、ナマエさん。おはようございます」

穏やかな口調でそう言った時、秋山の表情はすでに声音と揃って柔和な笑みに変わっていた。
緩慢に身を起こせば、肩からブランケットが滑り落ちる。
どうやら、秋山がわざわざクローゼットから引っ張り出してきてくれたようだった。

「……おなかすいた」

明らかに寝起きと分かる声。
声帯の震え方に、ナマエはつい内心で苦笑した。
自身が置かれた状況や抱く感情の大半をそのまま乗せてしまうのも、相手が秋山であるからだ。

「夕飯は煮込みうどんです。後はうどんを入れるだけなのですぐに出来ますよ。食べますか?」

その出汁の匂いか、とナマエは納得する。
一つ頷けば、分かりました、と秋山が微笑んだ。


数分後、テーブルに置かれた二つの丼。
透き通る出汁と柔らかく煮込まれた野菜、きちんと卵を乗せてくれているところが秋山らしかった。
うどんを啜れば、久しぶりの温かく優しい食事に舌と胃が安らぐ。

「先に食べててよかったのに」

目の前で同じように食事を進める秋山は、確か中番のはずだった。
何時間か待っていてくれたことになるのだろう。

「ナマエさんがもう少し寝ていたら、そうするつもりだったんですけど。随分早かったですね。きちんと眠れましたか?」

律儀に箸を置いた秋山に心配そうな表情を添えて訊ねられ、ナマエは麺を啜りながら「ん」と短く肯定した。
元々、睡眠不足で平常運転なのだ。
今回は長時間モニターと睨めっこをしたせいで脳と眼の疲労が流石に酷く爆睡してしまったが、単純に睡眠時間だけで考えれば二日三日寝なくとも問題はない。

「明日、非番でしたよね?今夜はゆっくりして下さい」

安堵に、しかし若干の疑懼を混ぜて、心配性な秋山が眉を下げた。
大方、ナマエの虚勢だと思っているのだろう。

「はいはい、分かってるよ」

ナマエは苦笑しながら、柔らかい長葱を箸で摘む。
秋山が箸を持ち直し、ふう、と掬い上げた麺に息を吹き掛けた。

「……世話焼きっていうか、甘いっていうか」

ナマエへの態度は、秋山が他の誰にも見せない一面であることは間違いない。
決してそれに絆されたわけではないはずだが、少なくとも心地が良いことは認めざるを得なかった。

「それが、俺の特権ですから」

さも当然とばかりに幸せそうな笑みを見せられ、ナマエは小さな嘆息を一つ。
ナマエに与えるだけ与えて礼さえ言わせない秋山は、少し狡いと思った。

「……じゃあ、デザートを貰うのは私の特権?」
「はい?」

額面通りに受け取ったのであろう秋山が、首を傾げる。
甘いもの食べたいんですか、なんて見当違いなことを言い出す前に、分かりやすい単語を一つ付け足した。

「ひーーもり?」

わざとらしく、甘ったれた声。
一瞬で首から上を真っ赤に染めた秋山を視界の隅に収めつつ、半熟卵の黄身を割った。






とろりと零れる情愛
- 隣にいる、それが当たり前になった -






prev|next

[Back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -