とろりと零れる情愛[1]
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恋人の部屋のドアを開け、まず視界に飛び込んできたのは靴下だった。
短い廊下に、ぽつり、ぽつりと片方ずつ、約五十センチの距離を開けて落ちている。
はて、と首を傾げつつも、秋山は一先ず玄関に入ってそっとドアを閉めた。
その玄関では、見慣れたブーツが一足、それぞれ左右に倒れている。
その状況から部屋主の行動を察するに、ブーツを乱雑に脱ぎ捨て、廊下で靴下を脱いで部屋に入ったのだろう。
秋山は、倒れているブーツを起こして揃えてから自分のブーツを脱いだ。
短い廊下を、靴下を一つずつ拾いながら進む。
途中で覗いたキッチンの手前になぜか制服の上着が落ちていたので、それも拾った。
上着と靴下を抱えて部屋に足を踏み入れる。
するとベッドの上に、スラックスとワイシャツを身につけたままうつ伏せで眠る恋人の姿があった。
スラックスの履き口から出たワイシャツの裾が捲れ上がり、白い脇腹が覗いている。
数時間前に情報室で見た時にはその髪を留める役割を果たしていたヘアクリップが、床に転がっていた。
秋山はとりあえず靴下を床に置き、クローゼットから取り出したハンガーに制服を掛ける。
その際、ポケットの中に入っていたタンマツは取り出してローテーブルに乗せた。
ついでに自分も上着を脱ぎ、同様に仕舞う。
それからベッド脇の床に膝をついて、掛け布団に顔を埋めるナマエを見下ろした。
右半分だけ確認出来るその顔を見る限り、深い眠りの中にいるのだろう。
部屋に戻り、脇目も振らずにベッドへ直行して倒れ込んだことは明白だった。

お疲れ様でした、ナマエさん。

声には出さず、心の中でそっと恋人を労る。
化粧を落としていないにも関わらず目の下に薄っすらと見て取れる隈があり、秋山は申し訳ないような情けないような心持ちで眉を顰めた。

二日前に、屯所内のイントラネットでシステムエラーが発生した。
その対応に追われ、ナマエと伏見は五十時間近くずっと情報室に缶詰だったのだ。
今日の昼過ぎにようやく問題が解決し、流石のナマエもぐったりとした様子で情報室を出て行った。
恐らくそのまま部屋に戻り、この状況に至ったのだろう。
丸二日間、手洗い以外で席を立ったところを見たことがなかった。
飲食も最低限で、コーヒーと固形の栄養調整食品を喉の奥に流し込んでいるだけだった。
伏見にとっては常と変わらない内容かもしれないが、きちんとバランス良く食事をとることの重要性を理解しているナマエには珍しい行動だった。
それほど、状況は切迫していたのだろう。
ナマエや伏見ほどIT分野に精通していない秋山には二人の通常業務を肩代わりするのが関の山で、疲弊を滲ませながらモニターに向かう姿を無力感に苛まれながら見守ることしか出来なかった。

静かな寝息を繰り返すナマエの頭に、そっと手を伸ばす。
眠りを妨げないよう気をつけながら、触れるか触れないか、際どい位置で髪を撫でた。
秋山はナマエに触れる時、いつも慎重になる。
硝子細工に喩えるほどナマエが柔でないことを知っていても、それ以上に秋山は自身の手が決して優しいものではないと自覚していた。
幼少の頃から剣を握り続けてきた手の皮は厚く、指の関節も歪だ。
爪だけは短く切り揃えているが、全体的に手入れが行き届いているとは言えないだろう。
例えば自分の頬を指でなぞった時、とてもじゃないが心地良いと思える感触ではない。
肉刺を何度も潰して出来た硬い皮膚は、何かを慈しんで包み込むには不相応だった。
触れることで、ナマエの柔肌を傷付けてしまわないかと不安になる。
だからこそ秋山は、細心の注意を払ってナマエに触れていた。

静かに髪を梳いても、ナマエは目を覚ます気配を見せない。
秋山には、それが嬉しかった。
本来、ナマエは人の気配や物音に敏感だ。
たとえそれが三日ぶりの睡眠であろうが、どれほど困憊していようが、ある一定の範囲内に他人が入り込めば確実に目を覚ます。
以前のナマエならば、気付かずに秋山の侵入を許し剰え髪を撫でさせるなど絶対にあり得なかった。
酷く疲労を溜め込んだ状態の今でも、この部屋を訪ねたのが秋山でなければナマエは間違いなく気配を察知しただろう。
無意識下で秋山の存在を認めたからこそ、ナマエは眠ったままなのだ。
秋山のことを、決して自らに危害を加える相手ではないと信用してくれている。
睡眠というヒトにとって最も無防備な状態を、晒しても良いと思ってくれている。
他者の前で油断することを厭うナマエにとってそれがどれほど特別なことか理解しているからこそ、秋山は差し出される信頼を幸せに思った。
いつの間にか、ここまで深く入り込むことを許してくれた。
当初では絶対にあり得なかった距離の近さに、秋山は眩暈がするほどの喜悦を感じる。
自身にだけ許された特別な距離感は、秋山の独占欲を甘く満たした。

いつからだろうか、と秋山は思考を巡らせる。
眠っている時に秋山が部屋を訪ねても、ナマエは目を覚まさなくなった。
秋山と二人でいる時、稀に意識をぼんやりと漂わせるようになった。
秋山の挙動を全て把握しなくなった。
ふとした瞬間に驚いた様子を見せてくれるようになった。
それらは全て、秋山への信頼だ。
油断や隙を作っても自らに害はないと、感情を悟られても嫌ではないと、ナマエが思ってくれたから、秋山はありのままの姿を見ることが叶った。
完璧ではないナマエを知ることが出来た。
実は少しだけ整理整頓が億劫で、疲れていると制服を脱ぎっぱなしにしてしまうこと。
シャワーを浴びた後、途中で面倒になるのか髪が半乾きの場合が多いこと。
きっと、そんなナマエを知っているのは秋山だけだ。
そうやって一つひとつ意外な点を見つけていくことが、秋山にはとても楽しく、そして嬉しかった。
隠し事をするなとは言わないし、何もかもを秋山に合わせてほしいわけではない。
ただ、秋山と共にいる空間や時間がナマエにとって安らげるものであればいいと願っている。
デフォルトで装備された警戒心を解き、肩の力を抜いて寛ぐ姿を見られるだけで、秋山は充分に幸せだった。


「………ん………」

捲る気力すらなかったらしく掛け布団の上で眠るナマエが、小さく身動ぐ。
投げ出されている腕が、少し肘の角度を変えた。
ほんの僅かに漏れた声が鼓膜を揺らし、思わず頬が緩む。
眠っていると常よりも少し幼く見える気がして、庇護欲に似た感覚が刺激された。
どんな夢を見ているのだろうかと、勝手に想像を膨らませる。
優しくて暖かい世界であればいいと思った。
そして願わくば、そこに自分がいるといい、と秋山は薄く笑う。
秋山は良く、ナマエの夢を見た。
だからその反対も、あればいいと思う。
微かに上下する背中を辿っていると、捲れたワイシャツから覗く脇腹に目がいった。
なだらかな曲線に、視線を引きつけられる。
直に触れて、シャツの中に手を滑り込ませて、存分に撫で回したい衝動。
欲望に直結する己の思考に、秋山は長くゆっくりと息を吐き出した。
いつからこんな節操のない人間になったのか、自分で自分に呆れてしまう。
大人しくしていろ、と自らに言い聞かせ、秋山は立ち上がった。
そのままナマエの隣にいては、きっと不味いことになる。
取り返しが付かないような状態になる前に、気を紛らわせようと思った。

今回の超過勤務を受け、ナマエと伏見は明日が非番になったと聞いている。
今夜はゆっくり休んでもらおう。
秋山は、何時間か後に目を覚ますであろうナマエのために食事を用意するべくキッチンに向かった。
恐らく胃腸の働きが弱くなっているだろうから、油の少ない優しめな献立がいいだろう。
冷蔵庫を覗きながら、秋山はそっと頬を緩めた。




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