アメジストに誓う永遠[2]
bookmark


受理台が緊急出動を発令したのは、宗像と淡島が屯所を離れてから一時間後のことだった。
幸いコモンクラス一名による第三種展開のため、宗像に出動要請を入れる必要はない。
指揮を伏見が執り、特務隊は現場となった菱ヶ谷のコンビニに急行した。

午後からの雨予報に相応しく、灰色の空が低い。
今にも雨が降り出しそうな気配を孕んだ雲の下、ナマエは指揮情報車から降りた。
事件が解決するまで保てばいいが、と曇天を見上げる。
ナマエは今でも、雨が嫌いだ。


警察からの情報では、犯人が幼い子どもを人質に取って立て籠もっているということだったが、特務隊が現場に到着してみれば、その犯人は拍子抜けするほどあっさりと投降した。
曰く、異能の暴走が怖くてセプター4に捕らえてほしかったから事件を起こした、ということで、それを聞くなり伏見は盛大な舌打ちをかました。
だったら屯所に直接来いよ、と吐き捨てた伏見の論は正当だ。
到着後五分でストレインは逮捕され、事件は終わりを迎えた。

「ったく、馬鹿馬鹿しい」

もちろん、何の犠牲もなく短時間で片付いたことは僥倖なのだが、仰々しく小隊まで引き連れて現場に赴いたことを思うと嫌気も差すというものなのだろう。
伏見は誰よりも早く現場に背を向け、指揮情報車に戻った。
ナマエは小さく苦笑し、コンビニの出入口に視線を遣る。
秋山が人質となった少女を救出してきたところだった。
恐怖ゆえなのか、遠目に見ても身体を強張らせて怯えている。
ナマエは一瞬躊躇ったが、結局はその少女の方へと足を向けた。

「………怪我、してない?」

秋山が手を引く少女の前に屈み込む。
同性ということに安堵したのか、少女がようやく表情を変えた。
くしゃり、と小さな顔が歪み、つぶらな瞳に涙が浮かぶ。
幼い子どものあやし方など知らないので困惑しかけた時、不意にナマエの鼓膜が甲高い音を拾った。
耳触りな音に顔を顰めると、まるで脳味噌を直接揺らされたかのような不快感に襲われる。

「なに……、これ……」

眩暈にも似た感覚に目を瞑りかけた時、ナマエは驚愕した。
瞼を自らの意思で下ろす前に、視界が閉ざされたのだ。
視界が一面の灰色になった。
咄嗟にきつく目を瞑り、意識して瞼を持ち上げる。
しかし、何度瞬きをしても視界は変わらず灰色のままだった。
意識が急速に聴覚を研ぎ澄ます。
弁財が後処理の指揮を執る声、その指示に従って駆けていく足音。
慌ただしいが、現場の後始末をするに相応しい喧騒。

「ミョウジ?どうかしたか?」

固まったナマエを訝しむ、秋山の声。
何もかもが、普通すぎる。
ナマエは瞬時に、この視覚異常が自らにだけ起きていることを察した。
何が原因だ。
即座に思考の圧力を上げる。
今回のストレインの異能は、物を浮かせることが出来るというものだった。
視力には関係ない。
そもそもナマエは、そのストレインと一切接触していない。
ならば、他に原因があるのだろう。

ナマエは、この異常事態に対して随分と冷静な自分を客観的に見下ろした。
理由など考えるまでもなく、ナマエにとって視覚を失うことが初めてではないからだ。
三年半前にも同じ経験をした。
異能を暴走させて施設を飛び出した時、そこから一ヶ月に渡ってナマエは視力を失っていたのだ。

ああ、嫌なことを思い出した。

ナマエは脳裏を過ぎった忌々しい映像を振り払い、思惟を研ぎ澄ました。
なぜ視界が閉ざされた。
最後に見たものは何だ。

「ーーっ、秋山さん!」

まだこの場にいるはずの秋山に、ナマエは慌てて声を掛けた。
最後に見たもの。
それは今目の前で泣いている少女の目だ。

「この子の目、見ちゃ駄目です」

確信はない。
本当にこの視覚障害が異能の影響なのか、そしてこの少女がストレインなのか、根拠などない。

「何かで、この子の目を覆って下さい。絶対、見たら駄目です」

え、と戸惑いの声を上げた秋山に念を押す。
日々ストレインという未知の存在と関わり続けている秋山の対応は手早かった。
ごめんね、という声、そして制服の上着を脱ぐ音。

「ミョウジ、確認だが、君は今何も見えていないのか?」

恐らくそれは、ナマエの挙動を観察した結果導き出された答えだったのだろう。
ナマエは一つ頷くことで秋山の推測を肯定した。

「分かった。今この子を車に乗せて来るから、ここで待っていてくれ」

恐らく、少女の頭から制服を被せて抱き上げたと思われる秋山が、足早に去って行く足音。
その場に取り残されたナマエは、短く嘆息した。
もしこの視覚異常があの少女の異能なのだとすれば、何とも厄介な力である。
どこを見渡しても灰色一色でしかない世界は寒々しく、ナマエは諦観して瞼を下ろした。

その時。
ぽたり、と落ちてきた水滴がナマエの頬に当たった。
最初の一滴を皮切りに、ぽたりぽたりと続けざまに水が降ってくる。

ーーー 雨か。

そう認識した瞬間、瞼の裏に鮮明な記憶が蘇った。

コンクリートの壁。
独房のような冷たい部屋。
手足を拘束する重い鎖。

近付いてくる足音。
段々と距離が縮まる。
足音が大きくなる。

それはやがて部屋の前で立ち止まり、扉が開かれて。

よんばん、と。

男の声が、地獄の始まりを告げる。

大量の水。
凍えるほど冷えた水。
その中に沈んでいく身体。

体温も、呼吸も、全てが奪われる。


「ーーっ、い、やだ……っ、やめ、や……っ、ぃやぁぁぁぁああああっっっ!!」


絶叫が、雨の間を縫って空気を切り裂いた。

「ミョウジ?!」
「ミョウジさんっ!」

近付いてくる足音、群れる気配。

「こな、いで……っ、こない、で……っ!」

膝をつき、全身を震わせ、ナマエは拒絶した。
自らを中心とした円を描くような位置で、足を止めた隊員たちの気配を感じる。
ナマエは目を閉じたままサーベルに手を掛けた。

「ミョウジ、抜刀……!」

苦しいのは嫌だ。
痛いのは嫌だ。
こわい、こわい、こわい。

だからその前に、倒さなければ。
しかしサーベルを引き抜いても、折り曲がった膝が立ち上がることを許さない。
震えた身体が動かない。
抜き身のサーベルを手に蹲るナマエの頭上から、本降りとなった雨が降り注いだ。

「や、だ……っ、ぃや、だ……ぁ……っ、こないで……っ、いたいの、や…だ……っ、れ……しさ……、れーし、さ……っ」

いつかの雨の日、道端で、膝を抱えて呼んだ名前。
ナマエが、人生で初めて呼んだ人の名前。
ゴミみたいに落ちていたナマエを拾って、ナマエという名をくれて、ナマエを人間にしてくれた、慈しんでくれた人の名前。

「れ、しさ……っ、れぇし、さん……っ!」

大丈夫です、怖くないです、痛くないです。
そう言って、ずっと背中を撫でてくれた。
ここにいてくれませんか。
そう言って、ナマエに初めての家をくれた。
よく頑張りましたね、とてもいい子です。
そう言って、何度も褒めて認めてくれた。
何があっても君を離しません。
そう言って、ナマエに居場所をくれた。

「れーし、さん……っ、」

ナマエは震える左手を持ち上げ、宗像から贈られたチョーカーに触れた。
君は、俺のものだ。
宗像はそう言って、ナマエを抱き締めてくれた。

あの温かい手が欲しい。
あの逞しい腕が欲しい。

ここから、この色のない冷たい世界から、掬い上げてくれるのは、ただ一人なのに。


「……礼司、さん……っ!」


ふわり、と。
胸の真ん中に、青が満ちた。



prev|next

[Back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -