アイシテルの言葉[3]
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言ってくれればよかったのに、と思った。
流石にわざわざ有給休暇を申請する、なんてことはしなかっただろうが、どこかで食事をしても良かった。
短い時間ではあるが、細やかなデートくらい出来ただろう。
一般的に、記念日とはそういうものだという認識を、ナマエも一応は持っていた。

ナマエ自身は生憎、記念日を気に留めるタイプではない。
かつて、相手に日付を憶えろと言われれば憶えたし、祝いたいと言われればそれに付き合ったが、特に感慨はなかった。
強請られない限り、記念日や季節のイベント、誕生日などでプレゼントを用意したこともない。
だが、記念日を祝いたいという相手の意思を無下にしたこともないつもりだった。
だから、秋山に言われたらきっと、ナマエは今日を特別な日として認識出来ただろうに。

ああ、そうじゃないな。

ナマエは、縫い合わせた思考の糸を全て解いて白紙に戻した。
秋山は、そんなことを望んだわけではない。
形式だけの祝いや、即物的なプレゼントを欲しがったのではない。
ただ、何の下心もなく純粋に、一年間を共に過ごせたことを喜び、"その日"を思い返していたのだ。

「秋山、」

手を伸ばし、秋山の頬に触れる。
目を細めてナマエを見つめていた秋山が、はい、と律儀に答えた。

「今日、憶えたから」
「……え……?」
「来年からはちゃんと、憶えてるから」

実際、それは可能なのだ。
一度重要なことだと脳に認識させれば、ナマエは絶対に記憶しておける。

「ーーっ、……ナマエ、さん……」

ナマエの掌に頬を当てたまま、秋山がくしゃりと表情を崩した。

「おれ……っ、知ってると思いますけど、あの日、断られると思ってたんですよ」
「うん」
「ナマエさんは絶対、俺のことなんて、別に何とも思ってないって、分かってました」
「うん」

眉根を寄せ、苦笑ともつかない情けない表情を浮かべた秋山の言葉に、ナマエは一つひとつ頷いていく。

「だから、信じられなくて。最初は、夢かと思って。でも、貴女は俺のことなんて見ていなかったので、それでやっと現実なんだって分かって、」
「うん」
「なのに、少しずつ、近付いて来てくれて。好きだって、言ってくれて。俺が馬鹿をやっても、許してくれて、」
「うん」

耳が痛いな、とナマエは苦笑した。
秋山にナマエを批難するつもりがないのは重々承知しているが、言葉だけをなぞると何とも酷い話だ。

「……こんなことまで、許してくれた」
「え?……っ、あ、ーーっ、」

それは、完全なる不意打ちだった。
記念日云々で本人すら意識の外に排除していた場所へ、唐突に当てがわれた熱芯が入り込む。
数分の会話を経ても全く硬さを失うことのなかったらしい欲望が、狭い内壁を押し分けて奥へと押し進められた。

「ば、か……っ、あ、ン……、ぅ、あっ、」

覚悟していなかった分、衝撃は大きい。
一時間半も我慢した結果なのか、常よりも一層大きく感じられる熱芯を受け止めた下腹部が燃えるように熱かった。

「……は、……っ、ナマエ、さん……っ」

快感に表情を歪めた秋山が、熱っぽい吐息を零す。
情欲を灯した左目が揺れていた。

「あの日、始まったんです。……絶対に、振り向いてなんか、くれないと、思っていた貴女が、気紛れでも、俺を受け入れてくれた、あの日に」

抽送を続けながら、秋山が訥々と掠れた声を落としていく。
ナマエは左手を伸ばし、秋山の長い前髪を横に流して押さえた。
露になった右目が、真っ直ぐにナマエを見下ろす。

「しんじ、られないくらい……っ、しあわせで、ほんとうに、人生でいちばん、しあわせな一年でした……っ」

ぼろり、と。
何の前兆もなく、秋山の双眸から涙が零れ落ちた。
それぞれの一滴目が頬を伝ってナマエの首元に落ちた後は、もうあっという間だった。
しゃくり上げながら、秋山はぼろぼろと涙を流す。
熱芯を最奥まで収めて腰の動きを止めた秋山が、ひくりひくりと不規則に喉を鳴らした。

こんなに盛大な焦らしプレイが他にあるだろうか。

ナマエは苦笑を深め、下腹部から意識を無理矢理引き剥がした。
嗚咽を漏らして泣き続ける秋山が、上体を起こして自由になった両手を目元に当てようとするので、ナマエはその手を掴んで逆に引き寄せる。
倒れ込んできた秋山の背中を抱き締め、耳元で鼻水を啜る音を聞きながら髪を撫でた。

「……ナマエさん……っ、」
「ん?」

耳元で、ぐずぐずに濡れた声。
常も、少しだけ高めの声をしているが、鼻声になると一層甘ったれた音になる。

「まだ、いっしょに、いてくれますか……っ?」

反射的に溢れそうだった溜息を、既の所で飲み込んだ。
ここで長めに息を吐き出せば、誤解を招くことは必定だ。

「あのね、秋山。一年契約じゃないんだから」

一年毎に契約の更新を確認するつもりなのか。
ナマエの切り返しに、秋山が小さく唸った。
きっと、欲しいのは言葉なのだろう。
ナマエは首を捻って秋山の耳元に唇を寄せた。

「いるよ、一緒に。これからも」

嗚咽が一層酷くなったのは、想定の範囲内だ。
今頃シーツは涕洟と涎で無惨な有り様だろう。
この後さらに互いの汗と淫液で汚れるのだから、気にする必要はなかった。

あの日、好きだと言われた時、ナマエはこう返した。
それで、私にどうしてほしいの、と。
百点満点の回答とは、言えないだろう。
間に合うだろうか。
今からでも、遅くないだろうか。
否、どう考えても手遅れだ。
でも、今だから伝えられることを、きちんと言葉にしておきたい。
この、臆病で心配性でネガティブで、ナマエに関することになると常の余裕と相応な自信を一瞬でどこかに吹き飛ばしてしまう、どうしようもない男に。
どうしようもなく、好きだと思える恋人に。

「ねえ、氷杜」

たぶん、初めてだ。
人生で初めて、人に告げる言葉だ。
その意味を理解しているのかどうか、迷いなく頷くことは出来ない。
もしかしたら、意味などない上辺だけの言葉になってしまうかもしれない。

「……あいしてるよ、」

でも、今この瞬間、その言葉を伝えたいと思った気持ちだけは、真実だ。

手をついて上体を起こした秋山が、目を見開いてナマエを見下ろしている。
予想通りの反応なのに、少しだけ気恥ずかしいのはどうしてなのだろうか。
慣れないことをするものではない。
ようやく収まりかけていた涙が、再び秋山の瞳に膜を張った。
見る見るうちに決壊し、すでにそこにある涙の筋を上書きする。
人の上に跨って、当然全裸で、涸れ果てるのではないかと危惧したくなるほど情けなく大泣きする秋山を見上げながら、それでも愛おしいと思える自分にナマエは苦笑した。



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